西秦
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7月には息子の乞伏勅勃を人質に差し出して呂光に従属した[3]。だが397年、後涼から南涼北涼が離反・自立したため後涼は衰退し、乞伏乾帰は南涼と連携して再度自立した[3]
一回目の滅亡

400年1月、乞伏乾帰は苑川に遷都したが、5月に西進してきた後秦軍と戦って敗れ、7月に南涼に逃亡した[3]。ところが南涼に反乱を察知されたため、11月に長安に逃亡して後秦の姚興から河州刺史・帰義侯に封じられ後秦の家臣となり、ここに西秦は国家としては滅亡した[3]。ただし乞伏乾帰は苑川に戻る事を許されたため、以後は自己の勢力を保持しながら後秦の武将として後涼や後仇池、吐谷渾を攻撃した[3]
再興

402年5月、後秦は北魏平陽南部で戦い大敗した(柴壁の戦い[1]。この敗戦で後秦は衰退が始まり、407年6月にはが自立したこともあり[1]、その衰退が顕著になったので、409年7月に乞伏乾帰は度堅山で秦王を称して更始と改元して後秦の支配から脱却し、西秦を再興した[4]

410年8月、乞伏乾帰は苑川に遷都し、略陽南安・隴西と後秦領を次々と併合した[4]。しかし後秦は東晋や夏からの圧力を受けて西秦にまで軍を向ける余裕は無く、その支配を追認して乞伏乾帰を大単于・河南王に封じて形式的に服属させるのみだった[4]。以後、乞伏乾帰は南涼、吐谷渾を攻めて勢力を拡大し、412年2月には譚郊(現在の甘粛省臨夏回族自治州積石山県)に遷都したが、6月に乞伏乾帰は兄乞伏国仁の息子乞伏公府により10人余の息子と共に殺害された[4]
再びの勢力拡大

乞伏公府の反乱の際、苑川に鎮守して難を逃れた乞伏乾帰の長男乞伏熾磐は、直ちに乞伏公府を討って即位した[4]。412年10月には枹罕(現在の甘粛省臨夏回族自治州臨夏県)に遷都した。414年5月には南涼を滅ぼし、秦王を自称した[4]。また吐谷渾を攻めて益州西部を併合し、さらに後秦が東晋の劉裕により攻撃されると東晋に従属して後秦領を切り取り、さらに漢中進出を目論んだが夏と衝突することを恐れて断念した[4]。また北涼西涼の抗争を利用して河西方面へ進出して勢力を拡大した[4]
衰退・滅亡期

421年3月、北涼が西涼を滅ぼすと西秦と衝突するようになり、さらに夏も関中に進出して西秦と敵対し、これに乗じて吐谷渾まで攻めてきたため、包囲網を敷かれた西秦は守勢に回った[4]。乞伏熾磐は北魏と連携することで打開を図り、北魏に夏を攻撃させて一応の成果を挙げた[5]。だが西秦国内で吐谷渾やの反乱が相次ぎ、結局衰退は免れ得なかった[5]

428年5月に乞伏熾磐は死去し、息子の乞伏暮末が即位する[5]。だが北涼の圧力を受けた乞伏暮末は429年5月に定連(現在の甘粛省臨夏回族自治州臨夏県)に遷都し、430年10月に夏から攻撃されたため北魏の支援を求めて平涼(現在の甘粛省平涼市??区)や安定(現在の甘粛省平涼市川県)に遷都しようとするも、夏に阻まれて南安(現在の甘粛省定西市隴西県)に遷都するのがやっとだった[6]

だが皮肉にも、支援を求めた北魏により西走してきた夏の赫連定により431年1月に南安を攻められ、乞伏暮末は夏に降伏した[6]。こうして国家としての西秦は滅亡した[6]。乞伏暮末は助命されたが、6月に一族もろとも夏により殺戮されて[6]、西秦は完全に滅亡した。
国家体制
官制

西秦の勢力基盤だった隴西は漢人豪族が多数居住し、そのため鮮卑族がかなり漢化することになった[6]。単于台が築かれず、五胡を統治するための特別な機構も無く、官制が三省六卿や四征将軍を中心とする以来の形態を取っていたことが、それを如実に物語っている[6]。高官に就任するのは皇族である乞伏氏が中心であったが、勢力基盤の都合から漢族や丁零からの就任も少なくなかった[6]
外交

西秦は周囲を前秦・後秦・北魏・後涼・西涼・東晋・南涼・夏などに囲まれていたため、常に存続や連携のために外交は欠かせず、あるいは服属して藩を称するなどして周辺諸国から掣肘を受け続けた[6]。首都を短期間で各地に遷したのも外交政策の一環であった[6]。ちなみに歴代君主は皇帝・天王などを自称したことは一度も無く、常に服属した国から位を授かっていた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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