西田税
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^ この列車には松江まで出迎えた鳥取県知事白上佑吉西伯郡長真野庄太郎、米子町長西尾常彦らが同乗していた。西田と米子中学校で同期だった福島哲は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し町中の大評判になったものだ。今とちがって、天子さまの第二皇子といえば、それこそ雲の上の人、町長も署長でも緊張してコチコチに固くなっていたものだ。それを町の名もない仏具屋の小倅(こせがれ)にすぎない西田が、殿下とさしで話していたというのだから、町の評判にならぬ筈がない。西田の奴、大したもんだ。陸軍大将間違いなしだというので同級生は、わが事のように喜んだのを記憶している。それが間もなく軍人を止めたという噂に、またまたびっくりしたものだ」と述べている[7]
^ 西田を看護する北一輝の献身ぶりは肉身以上のものであり、わが命に替えても西田の一命を救いたいとの思いが詰めかけている陸軍の青年将校に伝わり、それが一層西田派の連繋を強固なものにしていった(『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 33頁』)。このときの看護により、以後、西田は北を親のように信頼するようになったという。
^ 相沢が前夜一泊した西田から聴取した[10]
^ 青年将校のクーデターに対して、昭和天皇がひどくお怒りの様子であることを知り「国民の天皇」を持論としていた西田は悲痛な絶望感にとらわれた。「俺は殺されるとき、天皇陛下万歳は言わないで、黙って死ぬるよ」という税の言葉が、面会に行った姉・茂子につたえられている。(『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 36頁』)
^ 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料』2頁によれば、「北条町で調査をしたが、ついに何らの手がかりも得られなかった。」という。
^ 澤地は最初の『妻たちの二・二六事件』の「あとがき」(1971年12月執筆)に、事件関係者の未亡人を訪ね始めたのは「昨年の夏」と記している[24]

出典[脚注の使い方]^ 須山幸雄 1979, p. 36.
^ a b c d e f g h i j k 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』15頁
^ a b c d e f 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』16頁
^ a b c d e 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』17頁
^ a b c d 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』18頁
^ a b c d 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』19頁
^ 須山幸雄 1979, p. 113.
^ a b c d e f g h i j k l 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』29頁
^ 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 31頁』
^中外商業新報』1935年8月15日(昭和ニュース事典編纂委員会(編)『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編、 毎日コミュニケーションズ 1994年、p.3に掲載)
^ 澤地久枝 2017, pp. 183?184.
^ 澤地久枝 2017, pp. 172?173.
^ 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』34頁
^ 「北、西田、村中、磯部の死刑執行」『東京朝日新聞』1937年8月20日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会(編)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編、毎日コミュニケーションズ 1994年、p.570に掲載)
^ a b c d e 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』1頁

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