一方で江戸時代には海域の呼称を除いて「東洋」はほとんど用いられなかったのに対し、ヨーロッパの地理や文化を紹介する出版物に「西洋」を使ったものがみられた[1]。
1715年の新井白石の『西洋紀聞』は西洋という言葉を実体概念としてはじめて使った書物といわれる[1]。 1801年には山村才助が『西洋雑記』をまとめヨーロッパの歴史などについて述べている[1]。また、1808年には佐藤信淵がヨーロッパの歴史を叙述して『西洋列国史略』 が出版された[1]。 明治以降、東洋・西洋という対概念は海域ではなく陸域を示す言葉にも転用されるようになった[1]。これは単に地理的な意味での陸域呼称ではなく、政治・経済・歴史・ 科学技術・文化・社会といった人間の活動全体を総称した文化概念として使われるようになった[1]。 また「東洋」の概念も江戸時代にはあった文化的な実体概念としての「西洋」の補完概念として生まれたといわれる[1]。明治維新後は脱亜・欧米化の動き中で、欧州視点のアジア・オリエントの概念が導入され、オリエントの訳に東洋が充てられ、西洋(欧州)の対義語としてアジア全域を示すようになった[6]。 1894年(明治27年)には那珂通世が中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することを提唱するなど、日本における歴史研究では東洋史・西洋史・国史の三分野に分けるシステムが用いられるようになった[1]。 欧米では東西の世界にそれぞれオリエントとオクシデント(Occident)の表現を用いることがある[1]。オリエントとオクシデントはヨーロッパで、東洋と西洋は日本で形成され、本来は全く関係ない独立した思考概念であるが、西洋はオクシデントに相当する語として捉えられている[1]。 ただし、ヨーロッパでは、イースト、オリエント、アジアといった概念が「ヨーロッパ以外のもの」に対する概念として形成されたため、その内容は本来的に千差万別で国や何に焦点を当てた議論かによって一律ではない[1]。 また文化的側面においては、東西を分ける標語としてasiaとwestが使われる事が多い。この場合人や物を指す時は asianとwesternになる。 エドワード・サイードは1978年に著書『オリエンタリズム』を発表[1]。サイードらの研究によってオリエンタリズムが蔑視的なイメージとして批判されると、西洋の拝金主義、利益優先的な考え方をオクシデンタリズムとする解釈も現われた。ただしサイードが『オリエンタリズム』で取り上げているのは中近東のイスラム世界であり中国や日本は入っていない[1]。またサイードは、オリエントとオクシデントのいずれの呼称も否定している[7]。詳細は「オクシデンタリズム」を参照
明治時代
オクシデントの概念
出典[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 佐藤正幸. “ ⇒明治初期の英語導入に伴う日本語概念表記の変容に関する研究”. 山梨県立大学. 2020年1月18日閲覧。
^ kotobank 「洋」
^ weblio ⇒「洋」
^ kotobank 「西洋」
^ kotobank ブリタニカ国際大百科事典 「東洋」