1602年のイタリア人のイエズス会士マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものであるが、この地図ではインドの西海岸に小西洋という記述があり、ポルトガルの西海上に大西洋という記述がある[1]。
なお、現代中国では東洋は東アジアを意味する場合もあるが主に日本を指す[5]。 マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は17世紀はじめに日本に伝来し、この『坤輿万国全図』を参考に日本国内でも多くの世界地図が作成された[1]。しかし、日本で作成された世界地図では海域を示す東洋・西洋が抜け落ちており、日本では17世紀末まで東洋や西洋のように世界地図の海域に名前を付けるというものの考え方は生まれなかったといわれる[1]。 1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではインド洋には小西洋、ポルトガル沖には大西洋と記されており、これ以後は東洋や西洋の海域呼称が多くの世界地図で使われ始めた[1]。 幕末になるとパシフィック・オーシャン(Pacific ocean)とアトランチック・オーシャン(Atlantic ocean)という英語表現が幕末に日本に入ってきた[1]。もともと海域を示す言葉だった東洋と西洋のうち、大東洋や小東洋という呼称は幕末以降には太平洋となり世界地図の上から消滅した[1]。また、小西洋はインド洋と呼称が替わり大西洋だけが残された[1]。 一方で江戸時代には海域の呼称を除いて「東洋」はほとんど用いられなかったのに対し、ヨーロッパの地理や文化を紹介する出版物に「西洋」を使ったものがみられた[1]。 1715年の新井白石の『西洋紀聞』は西洋という言葉を実体概念としてはじめて使った書物といわれる[1]。 1801年には山村才助が『西洋雑記』をまとめヨーロッパの歴史などについて述べている[1]。また、1808年には佐藤信淵がヨーロッパの歴史を叙述して『西洋列国史略』 が出版された[1]。 明治以降、東洋・西洋という対概念は海域ではなく陸域を示す言葉にも転用されるようになった[1]。これは単に地理的な意味での陸域呼称ではなく、政治・経済・歴史・ 科学技術・文化・社会といった人間の活動全体を総称した文化概念として使われるようになった[1]。 また「東洋」の概念も江戸時代にはあった文化的な実体概念としての「西洋」の補完概念として生まれたといわれる[1]。明治維新後は脱亜・欧米化の動き中で、欧州視点のアジア・オリエントの概念が導入され、オリエントの訳に東洋が充てられ、西洋(欧州)の対義語としてアジア全域を示すようになった[6]。 1894年(明治27年)には那珂通世が中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することを提唱するなど、日本における歴史研究では東洋史・西洋史・国史の三分野に分けるシステムが用いられるようになった[1]。 欧米では東西の世界にそれぞれオリエントとオクシデント(Occident)の表現を用いることがある[1]。オリエントとオクシデントはヨーロッパで、東洋と西洋は日本で形成され、本来は全く関係ない独立した思考概念であるが、西洋はオクシデントに相当する語として捉えられている[1]。
日本における西洋
江戸時代
海域の呼称
文化の概念
明治時代
オクシデントの概念
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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