西武ドーム
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このベンチ変更に関し、元西武の選手で球団職員の木大成も前述のように各種施設が三塁側寄りに集中していることや観客の入退場時の動線を確保する点、各種店舗・設備が一塁側より充実している点などライオンズファンに対するサービス改善に加え、三塁側ベンチ裏に西武の選手用サブロッカールームを新設することが主な目的だった旨を説明している。西武のメインロッカールームはバックネット裏上段の棟内に設けられているためベンチから遠く、選手からもベンチ裏にロッカールームの設置を求める要望がかねてから寄せられていたものの、スタンドの構造上の問題で一塁側ベンチ付近はスペースの確保が困難なことから、構造的に余裕があった三塁側ベンチに各種設備を設けることになった[2]
歴史

元々は「西武園球場」[3]という小規模の球場1963年竣工)で、主にアマチュア野球の試合で使用されていたほか、日本プロ野球(NPB)の二軍戦(イースタン・リーグの公式戦)もわずかながら開催されていた。
改築屋根のない開業当時の「西武ライオンズ球場」
1993年日本シリーズ第1戦

以下は空撮写真による比較。

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスによる1974年当時の西武園球場

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスによる1984年当時の西武球場

1978年6月から、西武園球場の改築工事に着手。当初は、NPBの一軍公式戦も開催できる貸し球場に変えることを目的に置いていた。

その一方、堤義明が代表取締役社長を務める国土計画では、当時の関連会社であったプリンスホテル社会人野球チーム(プリンスホテル硬式野球部)の結成を計画。改築後の球場を、同部の活動拠点に使用することも視野に入れていた。しかし、経営難に喘いでいた福岡野球クラウンライターライオンズ)からライオンズの保有権を取得することを1978年10月にNPBコミッショナー(当時)の金子鋭などから要請されたことを受けて、球場の利用構想を変更。実際に保有権を買収した後に、チーム名を「西武ライオンズ」に変更したうえで、本拠地福岡市中央区平和台球場から改築後の新球場へ移転することを発表した[4]。堤は実父(西武グループ創業者の堤康次郎)からプロ野球の球団経営に手を出さないことを厳命されていた[注釈 3]が、「既存のNPB球団を誘致するだけの貸し球場ではシーズンを通じて試合を開催できないので、クラウン球団の買収を通じて自前で球団を保有したうえで、本拠地として活用した方が利益率が高い」という判断で球団の保有に踏み切ったという[5]

球場のモデルはドジャースタジアムで、池原義郎が設計を担当。早稲田大学野球部へ監督として出向していた国土計画社員(当時)の石山建一[注釈 4]が、堤から設計アドバイザーを委嘱された。石山は堤の西武園球場視察へ同行した際に、内野スタンドから望む外野方向の景観が良いことに着目。「内野スタンドからは狭山の山(並み)もユネスコ村も目に入るので、(西武園球場を解体した後に)新しい球場を建設するのなら、このような景観を生かす意味でも球場を西武園球場と逆の向きに配置した方が良い。向きを変えればデーゲームで野手の目に太陽の光が入りやすくなるが、野手がサングラスを掛けていれば大丈夫」と堤に進言したところ、実際に新球場のレイアウトへ反映された[5][6]

また、石山は早稲田大学野球部の監督として臨んだ1978年のアメリカ遠征[注釈 5]中に、野球関連の施設と一体になった球場の建設現場を目撃。さらに、西武園球場の改築工事を請け負っていた西武建設からの依頼でドジャースタジアムまで足を伸ばすと、ロサンゼルス・ドジャース職員(当時)のアイク生原から同スタジアムの設計図を入手した。堤から球場設計アドバイザーを委嘱された時点では「堤が球団を保有する計画を進めていたことを知らなかった」とのことだが、実際には堤にその意思があることを委嘱の人事から察していた。そこで、アメリカ遠征での経験を踏まえて、サブグラウンド・合宿所・室内練習場を完備した施設のアイデアを池原に持ち掛けた。また、「観客は監督になった気分で試合を見ているので、救援投手の練習風景から監督の戦略を推理する楽しみを、目に見える形で残しておきたい」という理由で、一・三塁側の内野スタンドとファウルゾーンの間を金網で区切ったうえでブルペンに使用することを堤に提言。「サブグラウンドにブルペンを作ったうえで、試合の展開に応じて、救援投手をスクーターに乗せて移動させれば良い」と主張していた堤を翻意させた[注釈 6]

一方の堤は、「身長180cmの外野手が飛び上がって本塁打性の打球をもぎ取ることも野球の醍醐味」として、外野フェンスの高さを2mに抑えることを、石山を通じて池原に要望。大相撲の枡席のような4人1組のボックスシートをネット裏に設けることも石山に指示した。結局、池原は以上のアイデアを、球場の設計にすべて反映。サブグラウンドは西武第二球場西武第三球場、合宿所は「西武ライオンズ(初代)若獅子寮」として建設された[5]。ちなみに、西武グループは一連の工事に対して、総額で50億円規模の巨費を投じている[7]

西武ライオンズは、堤義明をオーナーに据えたうえで、1978年のシーズン終了後にNPB一軍のパシフィック・リーグへ加盟。改築後の新球場は、西武球団の本拠地として、西武ライオンズ球場という名称で1979年に開業した。ただし、竣工がNPBレギュラーシーズンの開幕直前にまでずれ込んだ関係で、オープン戦での使用は見送られた[注釈 7]。こけら落としの試合は4月14日の同リーグ公式戦(西武対日本ハムのデーゲーム)で、元内閣総理大臣福田赳夫(堤の結婚の媒酌人)が始球式に登場。西武では新人(ドラフト1位入団)の森繁和投手に先発のマウンドを託したが、野手陣が7失策を記録した末に、1対7で日本ハムに大敗した[7]。なお、開業当初は場内へ掲示される広告に厳しい制限を設けていたため、グラウンド内からはスコアボードを除いて企業の広告が一切見られなかった。
ドーム球場化架設されたドームの屋根

西武ライオンズ球場は屋外球場として開場したが、設計の段階で屋根を付けることを想定していた。球場アドバイザーの石山によれば、球場の周囲に山口貯水池(狭山湖)村山貯水池(多摩湖)が存在することから、球場の上空が雨雲の通り道になることを予見したうえで想定したという[5]

その一方で、西武ライオンズ球団では一時、ドーム球場をお台場東京都港区の埋立地)へ建設することを条件に本拠地を西武球場から移転させる構想を立てていた。しかし、当時の東京23区内にはNPBの3球団が既に一軍の本拠地を置いていた[注釈 8]ことから、上記球団の了承を得る必要性、地元ファンからの反発、多額の建設費用の捻出、新球場が西武沿線外になることによるグループ企業の西武鉄道の減収[注釈 9]に対する懸念が相次いで生じた。結局、西武ライオンズ球場の設計上の想定に沿って、「既存の屋外施設に屋根を架設する」という日本では異例の工事で対応することになった。

1997年度と1998年度のNPBオフシーズン中に、2期にわたって工事を実施。1997年度の第1次工事で観客席の上にステンレスの金属屋根を付けたことから、工事の完了を機に西武ドームと改称した。ただし、第1次工事ではフィールド部分を屋根で覆っていなかったため、1998年シーズンの試合では「ドーム」を名乗っていながら雨天での中止が相次いだ[注釈 10]

1998年度の第2次工事で膜屋根がフィールドの上にも取り付けられたため、1999年に、日本で5球場目のドーム球場として再スタート。開場以来両翼95 m・中堅120 mだったフィールドも、この工事に伴って両翼100 m・中堅122 mに拡張された[11]。ちなみに、ドーム球場化後の第1号本塁打は、同年3月20日に開催された西武対読売ジャイアンツ(巨人)のオープン戦で、巨人の松井秀喜が記録している。

直径145 mの膜屋根は、重さが2100 tあり、約3日かけて37.3 mの高さまで100本のワイヤーでリフトアップして設置された[11]。この時の設計監修は建築家池原義郎が行った[11]

ドーム球場化後の膜屋根はスタンドの最上段から伸ばした柱で支えられているが、屋根とスタンドの隙間に壁を造らない設計で架設されたため、他のドーム球場と違って隙間から自然の空気を取り込めるようになっている。そのため、ドーム球場としては珍しく、場内に空調設備を取り付けていない[注釈 11]。また、開催予定の試合が雨天で中止される可能性は、第2次工事の完了を機に消滅した。ただし、台風などの異常気象が見込まれる日に組まれていた試合を、特段の理由(選手・観客の安全面への配慮や交通機関の運行休止)によって中止することはある[注釈 12]
2007年 - 2008年の改修人工芝の張替、フィールドシート、テラスシート、中段レストランの設置など新装されたドームの様子


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