西条藩
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1832年 - 1862年58西条松平家
10松平頼英
まつだいら よりひで-従四位上
左京大夫文久2年 - 明治4年
1862年 - 1871年63西条松平家

※全藩主が左近衛権少将に任命されている。
幕末の領地

伊予国

宇摩郡のうち - 15村 

新居郡のうち - 43村

周布郡のうち - 3村


西条松平家時代の藩政

西条松平家の西条藩は和歌山藩の支藩であり、軍役は本藩に組み込まれ、藩財政も本藩の支援を受けた。地理的条件にもかかわらず西条は特に本藩との結びつきが強く、藩士や家族が江戸と国許を行き来する際には和歌山を経由するのが常であった。また藩主だけでなく家臣間の移動も密であった[注釈 3]

松平家は定府大名であり、藩主が領国に入る機会は少なかった[6]。初代藩主頼純の西条入りは、入封した寛文10年(1670年)をはじめとして、約40年の治世で5回である[6]。しかし、西条松平氏10代200年の歴史で合計9回であり、正徳4年(1714年)に松平頼致、享保14年(1729年)に松平頼安、天保6年(1835年)に松平頼学、文久3年(1863年)に松平頼久が入国したに過ぎない[7]
ゆかりの人物「Category:西条藩の人物」も参照

松平頼雄 (西条藩嫡子)

山井崑崙 - 儒学者、江戸詰藩士として召し抱えられる。

都筑馨六 - 藩士、のち法学博士男爵

高橋筅次郎 - 藩士、剣術

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
^ 支藩制度は、藩主を目指しての後継者争い(お家騒動)を避けるために行われた。
^ 例えば坂本龍馬のいろは丸事件で有名な三浦休太郎は西条藩士から紀州藩士となった者である。

出典^ “西条藩を知る(3)「西条陣屋」大手門の歴史”. わかやま新報 (2018年9月2日). 2021年9月15日閲覧。
^ “西条藩”. 藩名・旧国名がわかる事典(コトバンク所収). 2014年4月14日閲覧。
^ “一柳氏”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2014年4月14日閲覧。
^ “ひ/愛媛県史 人物(平成元年2月28日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
^ “西条陣屋町の形成と発展/愛媛県史 地誌U(東予東部)(昭和63年2月29日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
^ a b c d e f 愛媛県埋蔵文化財センター 2014, p. 77.
^ 愛媛県埋蔵文化財センター 2014, p. 78.

参考文献

『藩史総覧』
児玉幸多北島正元/監修 新人物往来社 1977年

『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年

『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書 2003年

『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書 2004年

愛媛県埋蔵文化財センター『 ⇒西条藩陣屋跡 西条高校体育館改築工事に伴う埋蔵文化財調査報告書』愛媛県埋蔵文化財センター、2014年。 ⇒http://ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/hokokusyo/185/hokokusyo_185.pdf。 

「(伊予西条藩主・松平頼純)御譲物数寄道具帳」『徳川将軍家 御三家 御三卿 旧蔵品総覧』宮下玄覇編、宮帯出版社、2023年。

関連項目

伊予八藩

田宮神剣流(田宮流)

外部リンク

西条藩立写真館

藩名・旧国名がわかる事典『西条藩』 - コトバンク

西条(松平左京大夫頼謙) 。大名家情報 - 武鑑全集

先代
伊予国)行政区の変遷
1670年 - 1871年 (西条藩→西条県)次代
松山県







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