西村晃
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

西村 晃(にしむら こう[2][3][注釈 1]、(1923年大正12年〉1月25日[2][1][4] - 1997年平成9年〉4月15日)は、日本の俳優声優。北海道札幌市出身。
来歴・人物

日本初でありかつ東洋初でもあるロボットとされる「學天則」を製作した北海道帝国大学教授・西村真琴の次男。後に映画『帝都物語』では父・真琴役を演じた。

戦前の学生時代より、新し物好きの父より与えられたローラースケートを始め、日本のローラースケーターのパイオニアの一人として藤山一郎らと並ぶ知名度を既に得ていた。

父が北海道帝国大学教授を退官し大阪毎日新聞に論説委員として入社したため、大阪府豊中市へ転居。1940年日本大学専門部芸術科に入学。大学在学中より舞台で活動していたが、1943年の学徒動員で兵役にとられる。太平洋戦争中は第十四期海軍飛行予備学生、末期には徳島海軍航空隊特攻隊員だった。出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えている。この特攻隊員時代からの友人に、裏千家15代家元の千玄室がいる。海軍飛行予備学生だったある時、上官から特攻志願者を募る旨を通達されると、千に「自分は行きたくない」ともらしたが、徳島海軍航空隊に配属された。この時の戦友は千と2人しか生き残っていない。

太平洋戦争後、復員してからは本格的に演劇活動を再開する。1946年に東京芸術劇場の第一期生となる。翌1947年に退団して東京青年劇場を結成。1951年、新協劇団の準劇団員となり、1954年には岡田英次木村功らと劇団青俳を立ち上げた。

新劇俳優として活動する中、1951年に佐分利信監督作『風雪二十年』で映画デビューしてからは、映画やテレビドラマでも活躍。1954年から製作再開した日活と本数契約を結んだ。日活プログラムピクチャーでは悪役や敵役が多かった[2]。映画では『赤い殺意』での演技が認められ、数々の賞を受賞。また、アニメや洋画の吹き替え等声優としても活躍した。

1982年12月16日より『水戸黄門』で東野英治郎の後任として2代目水戸光圀役に就き初主役となる[2]。1983年5月10日の収録から東野同様に悪役で売ってきた西村は、どこかとぼけた喜劇的要素を活かし、それまでの代名詞だった月形龍之介や東野に比して若々しいイメージから「シティボーイ黄門」と呼ばれ、上品な振る舞いや風格で親しまれ、お茶の間の人気者となる。だが、1992年の第21部放送直後、長年連れ添った則子夫人が亡くなったショックで光圀役を降板、同年9月25日収録の最後の立ち回りのシーンでは涙目になっていた(光圀役として足掛け9年間、出演回数は283回であった)。後任は佐野浅夫

1995年11月に食道癌の手術を受け、この時は元気に退院した。1997年3月にスペシャルドラマ『黄落』の収録の時も元気だったが、同年4月14日夜に自宅で急性心不全を起こし、翌日4月15日午前6時半に死去[5]。74歳没。葬儀は密葬で行い、葬儀委員長は生前の約束で千玄室が務めた。死後、同年に放送された特別ドラマが最後の出演作品となった。
エピソード

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "西村晃" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年9月)


川口浩が隊長を務め、危険な秘境を探検する『川口浩探検隊シリーズ』が始まる以前、「西村晃探検隊」があった。


俳優養成所の舞台芸術学院の特別講師を務めたことがあり、市村正親が卒業後、俳優修行の一環として西村の付き人をしていた時期がある(1970年から73年ごろの約3年間)。市村は、西村本人と周りに集まってくる名優たち(三國連太郎小沢昭一ら)を見て「一流の役者の振る舞いや言動を知った」という。西村は市村を「いっちゃん」と呼んでいた。


いずみたくが作ったざれ歌を歌っていた(人間バンザイ。1970年発売。作詞は山上路夫)。一時期ラジオで流されたが放送禁止になってしまい、あまり知られていない。「自民の先生がするときは、無理やり通そとなさいます、はあーなさいます」にはじまる政党編(1番)と、「数学の先生がするときは、角度かんがえなさいます?」などの学校の先生編(2番)があった。


炎立つ』の第1部では『水戸黄門』で共演していた里見浩太朗とも共演した。撮影中の休憩時間、里見が西村に対して「ご隠居、江刺は初めてですか?」と声をかける場面があったという。なお、里見は同作がNHKドラマ初出演となったのに対し、西村は最後の大河ドラマ出演作となった。


『水戸黄門』以前は悪役イメージが強かった。グロテスクなメイクを施した怪奇映画出演なども少なくないが、『吸血髑髏船』で共演した岡田真澄のDVD用インタビューによると、西村はこの種の企画や役どころが根っから大好きで、撮影時はいつも大乗りだったという。


『水戸黄門』出演時代、TBSテレビ「クイズまるごと大集合」特番で『クイズ100人に聞きました』の「日本のプロ野球12球団の外国人選手全員に聞きました。嫌いな日本の食べ物は何?」との問いに、西村は真顔で「玉子焼き!」と答え、このコーナーの司会者ビートたけしや他の出演者を笑わせる天然エピソードがあった(結果は不正解)。

受賞歴

毎日映画コンクール男優主演賞(1964年)『赤い殺意』

毎日映画コンクール男優主演賞(1982年)『マタギ』

紫綬褒章(1987年)

勲四等旭日小綬章(1994年)

出演作品
映画悪い奴ほどよく眠る』(1960年)

風雪二十年(1951年、東映)

真空地帯(1952年、新星映画) - 大住軍曹

山びこ学校(1952年、八木プロ) - 新田

雲ながるる果てに(1953年、重宗プロ・新世紀映画)

死の追跡(1953年、東映

太陽のない街(1954年、新星映画)- 刑事

億万長者(1954年、青俳クラブ) - 大阪弁の男

日の果て(1954年、八木プロ)

由起子(1955年、中央映画) - 警官

暴力街(1955年、東映)

ビルマの竪琴 第一部・望郷篇 第二部・帰郷篇(1956年、日活) - 馬場一等兵

沖縄の民(1956年、日活) - 甘藷堀の兵隊

牛乳屋フランキー(1956年、日活) - 税務署係員

幕末太陽傳(1957年、日活) - 気病みの新公

海の野郎ども(1957年、日活) - めっかち

鷲と鷹(1957年、日活) - 彦兵衛

夜の牙(1958年、日活) - 加納執事

楢山節考(1958年、松竹) - 村人

東京のバスガール(1958年、日活) - 青井一太郎

眼の壁(1958年、松竹) - 瀬川弁護士

紅の翼(1958年、日活) - 水谷鉄司

南国土佐を後にして (1959年、日活) - ベレーの寛

東京の孤独(1959年、日活)

逃亡者(1959年、日活)

爆薬に火をつけろ(1959年、日活)

銀座旋風児(1959年、日活)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef