1998年1月(2月6日説もある)、中央大学在学中にウェブサイト「Hirox's room」を開設した。3月には、大学の友人と合資会社「東京アクセス」を設立した。6月6日にサイト名を「Hirox's room」から「実録!交通違反をもみ消して罰金を払わない方法」(別名:「交通違反の揉み消し方」)に変更した。このサイトには、交通違反の罰金を揉み消すための情報交換掲示板が設置されており、2ちゃんねるのプロトタイプであったとされる[44]。翌1999年5月30日、米国留学中に「あめぞう掲示板」の避難所として匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し[64][注釈 4]、7月22日には「2ch.net」を取得した[65]。
ひろゆきは、2ちゃんねるが成功した理由について「情報ニーズがあるから」と、述べている。また、「ネーミングや機能が優れていたからではなく、匿名で自由に書き込みたいという欲望があったから」とも語っている[66]。成功については、「ある程度の大きさになるとは思っていたが、こんなに早くなるとは思わなかった」と述べている[67]。また、あめぞうも含めた掲示板がありながら、2ちゃんねるだけが存続できた理由として、「データが消えない仕組みをつくった」、「(金にならないと思われていた中で)暇だったから辞めないで続けられた」と、述べている[68]。 2000年5月、西鉄バスジャック事件の犯人が2ちゃんねるに犯行予告を行っていたことを受け、当時23歳だったひろゆきは報道番組『ニュースステーション』(テレビ朝日)のインタビュー取材に応じた。この時、ひろゆきは「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と発言している(後述)。なお、ひろゆきにとっては、これが初のメディア出演となった。 2001年8月、ひろゆきは日本生命との裁判で敗訴した[69]。この時期から、ひろゆきは2ちゃんねる上のネット中傷を巡る多くの裁判で敗訴し、多額の損害賠償を負うことになった[24][25][26]。 2002年までにGoogleは日本で最も検索された単語が「2ちゃんねる」であると公表した。 2002年9月、2ちゃんねるの関連会社である「東京プラス株式会社」(東京都北区赤羽北)を設立するとともに代表取締役に就任。 2003年4月、プログラマーの竹中直純らとともに「未来検索ブラジル」を設立し、取締役に就任。 同年6月には、ひろゆきが代表を務める東京プラスがガーラとの間で、ガーラのネット情報クリッピングサービスにおける2ch.netおよびまちBBSの掲載情報の独占利用許諾契約を締結[70]。 2003年9月、ひろゆきが自ら配信したメールマガジンで、DHCの製造する健康食品に枯葉剤が混入している、という事実無根のデマを拡散したことについて、東京地方裁判所は名誉毀損に該当するとして、ひろゆきに対して700万円の損害賠償の支払いを命じた[71]。 2004年10月、2ちゃんねるのログを書籍化した『電車男』が、映画化・テレビドラマ化・舞台化もされる大ヒットとなった。
2000年代―2ちゃんねるの成功とニコニコ動画の創設に関与