大学で心理学を学ぼうと考えた理由は、「心理学だけは人の心を扱うので、参考書を読んだだけではマスターできないと考えたから」であるが、実際に大学の授業を受けると授業でも参考書を読むだけだったため、期待外れであったと述べている[4]。また、中央大学を志望・受験したのは「最小限の労力で乗り切るため」であり「受験勉強をしたくないから、用語集の一番薄い政治経済を選び、自分の学力で受かる大学を受けた。受験はマークシート式で、最小限の労力で乗り切った。決して東大を目指すようなことはせず、『大卒』のカードだけを持っておこうと思った。僕はそうやって生き残ってきたタイプだ。大学に入っても、学問を修めるという意識はなく、最短で単位を取りながらダラダラと過ごすモラトリアム生活を満喫した。」と述べている[62]。
1990年代―2ちゃんねる開設詳細は「あめぞう」および「2ちゃんねる」を参照
1998年1月(2月6日説もある)、中央大学在学中にウェブサイト「Hirox's room」を開設した。3月には、大学の友人と合資会社「東京アクセス」を設立した。6月6日にサイト名を「Hirox's room」から「実録!交通違反をもみ消して罰金を払わない方法」(別名:「交通違反の揉み消し方」)に変更した。このサイトには、交通違反の罰金を揉み消すための情報交換掲示板が設置されており、2ちゃんねるのプロトタイプであったとされる[44]。翌1999年5月30日、米国留学中に「あめぞう掲示板」の避難所として匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し[64][注釈 4]、7月22日には「2ch.net」を取得した[65]。
ひろゆきは、2ちゃんねるが成功した理由について「情報ニーズがあるから」と、述べている。また、「ネーミングや機能が優れていたからではなく、匿名で自由に書き込みたいという欲望があったから」とも語っている[66]。成功については、「ある程度の大きさになるとは思っていたが、こんなに早くなるとは思わなかった」と述べている[67]。また、あめぞうも含めた掲示板がありながら、2ちゃんねるだけが存続できた理由として、「データが消えない仕組みをつくった」、「(金にならないと思われていた中で)暇だったから辞めないで続けられた」と、述べている[68]。 2000年5月、西鉄バスジャック事件の犯人が2ちゃんねるに犯行予告を行っていたことを受け、当時23歳だったひろゆきは報道番組『ニュースステーション』(テレビ朝日)のインタビュー取材に応じた。この時、ひろゆきは「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と発言している(後述)。なお、ひろゆきにとっては、これが初のメディア出演となった。 2001年8月、ひろゆきは日本生命との裁判で敗訴した[69]。この時期から、ひろゆきは2ちゃんねる上のネット中傷を巡る多くの裁判で敗訴し、多額の損害賠償を負うことになった[24][25][26]。 2002年までにGoogleは日本で最も検索された単語が「2ちゃんねる」であると公表した。 2002年9月、2ちゃんねるの関連会社である「東京プラス株式会社」(東京都北区赤羽北)を設立するとともに代表取締役に就任。 2003年4月、プログラマーの竹中直純らとともに「未来検索ブラジル」を設立し、取締役に就任。 同年6月には、ひろゆきが代表を務める東京プラスがガーラとの間で、ガーラのネット情報クリッピングサービスにおける2ch.netおよびまちBBSの掲載情報の独占利用許諾契約を締結[70]。 2003年9月、ひろゆきが自ら配信したメールマガジンで、DHCの製造する健康食品に枯葉剤が混入している、という事実無根のデマを拡散したことについて、東京地方裁判所は名誉毀損に該当するとして、ひろゆきに対して700万円の損害賠償の支払いを命じた[71]。 2004年10月、2ちゃんねるのログを書籍化した『電車男』が、映画化・テレビドラマ化・舞台化もされる大ヒットとなった。ひろゆきはその印税について、「僕が書いているわけじゃないので、あぶく銭だった」と述べ、阪神・淡路大震災などの被災者に全て寄付したと発言している。2ちゃんねる管理人としての収入は、「サラリーマンの生涯年収を年で稼ぐくらいだった」と発言している[72]。 2004年までに「2ちゃんねる」は日本最大のインターネットフォーラムとなった[73]。西村博之、札幌市 2005年 2005年11月14日、川上量生、麻生将豊(麻生太郎の長男)らの協力を得て設立されたドワンゴの子会社ニワンゴの取締役管理人に就任した[74][75][29]。当初、ニワンゴは未来検索ブラジルの技術を応用した「メールポータル」などのサービスをリリースしたが、ユーザー数が伸びずに低迷した[76]。その後、川上量生は動画サービスの可能性を探る中で、プログラマの清水亮のアドバイスで元「廃人軍団」の中野真、UEI所属のプログラマである布留川英一にプロトタイプを作らせ、現在のニコニコ動画に近いものができた。このプロトタイプをベースに、ドワンゴの戀塚昭彦
2000年代―2ちゃんねるの成功とニコニコ動画の創設に関与
2008年7月、ティーケイテクノロジー(札幌市)の取締役に就任した。
2008年10月、音楽配信サイト「mF247」をに・よん・なな・みゅーじっくと共同で運営していくことが決まった[77]。
2009年1月2日、2ch.netをシンガポールの法人「PACKET MONSTER INC.」(パケットモンスター社)に譲渡し、管理人からも退いた、と主張した[78][79]が、実際はドメインの所有権をペーパーカンパニーに移転したに過ぎず、ひろゆきが取締役を務める東京プラス社および未来検索ブラジル社に2ch.netの収益が還流されていたとみなされている[80]。さてさて最近の僕はといえば、2ちゃんねるを譲渡して管理人を外れ、その企業から相談をされたときにアドバイスをする『2ちゃんねるアドバイザー』、もしくは単なる1ユーザーだったりします。〔……〕では、なぜ2ちゃんねるを譲渡、つまり手放したのか? 僕は2009年、2ちゃんねるをシンガポールのパケットモンスター社に譲渡しました。もともと『2ch.net』というドメインは、アメリカのベリーズにあるモンスターズ社が所有していて、営業を僕が行っているという状態でした。ちなみにベリーズにあるモンスター社は、4、5年前に作った会社でして、映画『モンスターズ・インク』に登場する「モンスターズ・インク」という会社を実在させたくて作っただけの会社で、特に何かしようと思って作ったわけではありませんでした。そこで、モンスターズ社が所有しているドメインの所有権と、僕が持っている2ちゃんねるの営業権を、パケットモンスター社にまとめてしまおうと考えたのです。