西暦
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そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた[7]。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた[7]。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した[6]。また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられているクリスマスの12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた[7]
割礼日

イエス・キリスト割礼日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。イエスはユダヤ人として生まれたので、ユダヤの風習で八日目に神との契約である割礼を受けた。 この重要な儀式がイエスの誕生の12月25日の八日後に行われ、それを機に新しい年が始まるというものである。12月25日の八日後であるから、当時の数え方に従えば、現在の1月1日である。 ? 佐藤幸治、『文化としての暦』1998年、創元社、「西洋の年初」p.69

また、ザ・ガーディアンは、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している[8][3]
受容

西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年ベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである[9]

西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。
正教圏

東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。

また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山エルサレム総主教庁ロシア正教会セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。
西暦元年とイエス生年のずれ

ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年ごろに生まれたと考えられている。これは、新約聖書の2つの記述が根拠となっている。大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した。 ? ルカによる福音書、第2章    ※この人口調査は紀元前4年に行われたとされている。救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ2歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した。 ? マタイによる福音書、第2章

これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。「ナザレのイエス#イエスの生年」も参照
紀元前詳細は「紀元前」を参照

西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えばカエサルが暗殺された年は紀元前44年である。この記法は17世紀のフランスイエズス会の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583-1652)(別名ドニ・プト[注 3] (en:Denis Petau) )の発案によるものであり、18世紀末になってようやく一般化した。

日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語の“Before Christ”の略であるB.C.またはBCである。
0と負の西暦

西暦1年より前の年数を表すには「紀元前」を用いるので、通常は0年や負数を持つ西暦年は存在しない(0世紀も存在しない)。しかし天文学では西暦の概念を数直線上の0および負数へ拡張して用いる。これは天文学的紀年法(en:Astronomical year numbering)と呼ばれる。

天文学的紀年法が準拠する数直線

この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「-1年」、紀元前3年は「-2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年(カエサルが暗殺された年)は、西暦-43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるISO 8601でも採用されている。ISO 8601においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、-0001 は紀元前2年、-0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。詳細は「0年#西暦0年」および「ISO 8601#日付」を参照
表記

日本では西暦年での表記が増えており、「2024年」あるいは下2桁のみで「24年」または数字の前にアポストロフィ(')を付して「'24年」と表記する事が多い[10]元号と区別するためには、「西暦2024年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦24年)とは書かない(詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係」を参照)。また、百年紀を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁で表記される。

キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、大日本帝国では神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

英語では、2024または24と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2024" と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。

英語のADは、ラテン語の Anno Domini(〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない[注 4]。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するApres Jesus-Christ / Avant Jesus-Christ(を略したもの)を使う。
中立的な表現

キリスト教に基づく表現であるAnno Domini(AD)、Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era(共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。

もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。

2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した[11]。『ワールド・アルマナック』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体のカレッジボードなども導入している[12]

たとえば、Unicode Standard では.mw-parser-output span.smallcaps{font-variant:small-caps}.mw-parser-output span.smallcaps-smaller{font-size:85%}ceとbceを使っている。
西暦と各国の紀年法の関係
日本

日本には、16世紀カトリック教会の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代になって禁教令が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸オランダ商館出島への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行が問題視したために実行された。

再び西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で1872年(明治5年)に天保暦太陰太陽暦)からグレゴリオ暦太陽暦)への移行が決まってから(改暦の詳細については「明治改暦」を参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。


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