西崎義展
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アニメ製作プロデューサーへ

帰国後の1970年、広告代理店の東洋広報(現・東弘)の紹介を得て虫プロ商事に入社した[31]。同じ年に手塚の知人を介して個人契約をして手塚のマネージャーを務めるようになった[26][27][32][33][34][35]。西崎の説明によれば、手塚のゼネラルマネージメントプロデューサーであり、具体的には虫プロの組織や手塚個人の作家活動に関するマネージメントとプロデューサーを行ったという[26][27]。手塚作品のテレビへのプロモートを行い[27]、虫プロではなく手塚プロダクションで制作され、1971年から朝日放送で放送された『ふしぎなメルモ』で西崎は初めてアニメの世界に関わることとなる[26]

虫プロ商事は出版業の失敗に伴う希望退職の募集が原因で激しい労働紛争が起こり、これが原因となって社長が手塚治虫に交代しており、1971年2月頃よりに企画制作部長として就任していた西崎が多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図った。しかし急進的な改革は専横状態となったこと、手塚との個人契約で西崎が個人的収入を得ていたことから、人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る[32][33]。西崎の虫プロ商事経営は失敗に終わり、1972年4月に社長の手塚は債権者との話し合いで経営を債権者委員会に委ねることとした[32]

1972年4月、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同作は1971年10月に虫プロ商事でパイロット版が制作されていたが[36]、虫プロ商事にいたメンバーを中心に新たに設立されたアニメーションスタッフルームが現場となり、手塚の手を離れたところで西崎が製作を行った[37][38]。西崎はテレビ局への『海のトリトン』売り込みのために1000万円の工作費を個人で捻出していた[39]。当初はテレビ放映の決定に喜んで西崎に感謝していた手塚だったが、その後は西崎に激怒して没交渉となった[40][41]。同作監督の富野由悠季によれば、『海のトリトン』の企画を引き受けていた虫プロ商事が潰れたために(実際の倒産は1973年)、最終的に西崎が著作権を購入して「手塚先生から『トリトン』をひっぺがした」のだという[42]

同年にかつてと同名の新会社オフィス・アカデミーを改めて設立して社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする[24][28]。同じ年に瑞鷹エンタープライズにも個人プロデューサー兼製作部長として所属[43]1973年1月より『山ねずみロッキーチャック』を製作[24]。西崎は手塚原作の『ワンサくん』のアニメ化権も取得しており、仕事のない虫プロダクションは『ワンサくん』のアニメ版制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される[44]。同年4月より『ワンサくん』を放送するも、放送終了後の11月に虫プロが倒産。

1974年6月に虫プロの再建運動を進めていた労働組合と和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容[45]。倒産前の虫プロは西崎に300万円の借金をしていた[46]。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある[29]
宇宙戦艦ヤマトの大ヒット

1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。なお、西崎とSF設定等を担当した豊田有恒、主題歌を歌唱したささきいさおの三名は武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと(年次は西崎、豊田、ささきの順)[47]

1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した[6][48]

劇場版『宇宙戦艦ヤマト』一作目が版権、劇場販売物などを加え、手取りで17億円が転がり込み[49]、二作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は20億円が懐に入ったといわれる[50]1978年の「映画の日」に映団連から特別功労章の贈呈が決まり[50]、同年11月15日帝国ホテルで西崎の謝恩パーティが開かれ、西崎は「二十五年間の夢が叶って...」と大感激であったが、会場の話題はメインテーブルに西崎自らが釣ったカジキや鯛が並び、銀座の美女たちがズラリと顔を揃えた派手さと豪華さで[50]、スピーチに立った岡田茂東映社長は、自身も銀座5丁目のカリオカビルにクラブを出していたが[51]、「近来まれな豪華なパーティで驚いております。私なんかが足を踏み入れたことのないような高級クラブの美女ばかりお見えです...」などと祝辞を述べた[50]
企画頓挫の連続

1979年、徳間康快角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫[52][53]

『宇宙戦艦ヤマト』の製作により、本物の戦艦大和の最期に関心を抱くようになり、西崎は『宇宙戦艦ヤマト』のヒットで得た利益から3千万円を捻出して探索計画に乗り出した。この計画には野田昌宏番組制作会社日本テレワークも参加し、計28人の探索チームを結成。1979年4月14日から27日かけて探索船をチャーターして鹿児島県屋久島沖をソナーで捜索を実施し、深海カメラを4度降ろして撮影も行われた。ソナーには2つの影が映ったものの深海カメラでは艦影は映らず、戦艦大和と断定できないまま捜索は打ち切られた[30][54][55]

同時期には吉田喜重監督によるメキシコとの合作の実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)のプロデューサーに就任した。出演は原田芳雄本田博太郎、音楽は宮川泰が予定され、1980年秋公開のスケジュールでメキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている[53][56][57]

1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』[58]、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』[59]では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた[60][61]


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