西域
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また、匈奴の支配を受ける前のタリム盆地では月氏が支配しており、中国史書が伝える「月氏は敦煌祁連の間に住んでいた」すなわち、月氏が河西回廊(現在の甘粛省)のみにいたのではなく、新疆一帯にその領域を持っていたとする説もある[2]
張騫の西域訪問紀元前2世紀頃の中央アジアの地図

前漢では日々、北の匈奴の侵攻に悩まされていたので、武帝(在位:前141年 - 前87年)は月氏と共同で匈奴を撃つべく、西方に移った月氏へ使者の張騫を派遣した。張騫は100人あまりの使節団を従えて中央アジアを目指し、途中匈奴に捕われるなどしながら10年以上をかけてようやく大宛国に到着した。大宛は現在のフェルガナ地方にあたるオアシス都市国家であり、汗血馬ワインの産地であった。大宛王は以前から漢と交易してみたかったので、張騫を快くもてなし、隣国の康居へ送ってやった。康居はトゥーラーンにある遊牧国家で、匈奴と月氏の附庸国となって居たが、張騫を目的の大月氏まで送ってくれた。そしてこの大月氏こそが、かつて匈奴から攻撃を受けて中央アジアまで逃れてきた月氏である。大月氏王に謁見した張騫はさっそく武帝からの要件を伝えたが、大月氏王がすでに安住の地を手に入れたとしてその申し入れを断ったため、目的が達せられぬまま張騫は帰国した。[3][4][5]
烏孫との同盟

目的を果たせなかった張騫は13年ぶりに漢に帰国すると、太中大夫にとりたてられ、西域のことを武帝に伝えた。そこで張騫は大月氏ではなく、烏孫という遊牧国家と同盟を組んで匈奴を挟撃すべきと上奏した。当時、烏孫は匈奴の属国であったが、老上単于(在位:前174年 - 前161年)の死後、半ば独立状態となっており、兵力もあったことから、漢と同盟を結んで匈奴と対抗するには絶好の相手であった。そこで武帝は張騫を中郎将に任命し、300人の部下と共に烏孫へ派遣した。初め、烏孫王の昆莫という者は老齢であるが漢という国を知らず、また烏孫国内が3つの勢力に分かれていて不安定な状況であったため、その時ははっきりとした答えを出さなかった。そのため使節団は一旦帰国したが、そのついでに烏孫の使者を連れて来て漢の国を見物させるなどして、漢の偉大さを見せつけた。こうして次第に両国の間で交際を持つようになっていった。しかし、このことを聞いた匈奴は烏孫を攻撃しようと企んだため、それを恐れた烏孫がついに公主を娶って漢と兄弟となることを希望した。そこで漢は皇族の娘である江都公主劉細君を嫁にやって昆莫に娶らせると、漢と烏孫の間で同盟が結ばれた。[3][6]
楼蘭・姑師を服属

元封元年(前110年)、漢はたびたび楼蘭、姑師などの小国に使者を妨害させられたので、従驃侯の趙破奴に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を?野侯に封じると、姑師を車師前後王国及び山北六国に分けた。[7][8][9]
2度の大宛討伐

一方で、武帝はフェルガナの大宛とも交易を始めており、大宛の汗血馬を愛好していた。あるとき大量の汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、武帝はほしくなったので、使者を大宛に送った。しかし、大宛が漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命して太初元年(前104年)に大宛討伐を行った。しかし、蝗害飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出してほしいことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。

しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)に一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。汗血馬を差し出すのを拒んだためにこのような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは無能な昧蔡を殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。[7][10]
五将軍による匈奴征伐

昭帝(在位:前86年 - 前74年)の末年、匈奴の壺衍?単于(在位:前85年 - 前68年)は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。このとき烏孫公主(劉解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御していたので返事ができなかった。宣帝(在位:前73年 - 前49年)が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。本始2年(前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明度遼将軍范明友前将軍韓増後将軍・蒲類将軍の趙充国雲中太守・虎牙将軍の田順の五将軍を派兵した。校尉常恵は烏孫・西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:月氏系の諸侯)[注釈 2]以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。


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