前漢では日々、北の匈奴の侵攻に悩まされていたので、武帝(在位:前141年 - 前87年)は月氏と共同で匈奴を撃つべく、西方に移った月氏へ使者の張騫を派遣した。張騫は100人あまりの使節団を従えて中央アジアを目指し、途中匈奴に捕われるなどしながら10年以上をかけてようやく大宛国に到着した。大宛は現在のフェルガナ地方にあたるオアシス都市国家であり、汗血馬とワインの産地であった。大宛王は以前から漢と交易してみたかったので、張騫を快くもてなし、隣国の康居へ送ってやった。康居はトゥーラーンにある遊牧国家で、匈奴と月氏の附庸国となって居たが、張騫を目的の大月氏まで送ってくれた。そしてこの大月氏こそが、かつて匈奴から攻撃を受けて中央アジアまで逃れてきた月氏である。大月氏王に謁見した張騫はさっそく武帝からの要件を伝えたが、大月氏王がすでに安住の地を手に入れたとしてその申し入れを断ったため、目的が達せられぬまま張騫は帰国した。[3][4][5] 目的を果たせなかった張騫は13年ぶりに漢に帰国すると、太中大夫 一方で、武帝はフェルガナの大宛とも交易を始めており、大宛の汗血馬を愛好していた。あるとき大量の汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、武帝はほしくなったので、使者を大宛に送った。しかし、大宛が漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命して太初元年(前104年)に大宛討伐を行った。しかし、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出してほしいことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。 しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)に一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡 昭帝(在位:前86年 - 前74年)の末年、匈奴の壺衍?単于(在位:前85年 - 前68年)は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。このとき烏孫公主(劉解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御していたので返事ができなかった。宣帝(在位:前73年 - 前49年)が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。本始2年(前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明・度遼将軍の范明友・前将軍の韓増・後将軍・蒲類将軍
烏孫との同盟
楼蘭・姑師を服属に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を?野侯に封じると、姑師を車師前後王国及び山北六国に分けた。[7][8][9]
2度の大宛討伐
五将軍による匈奴征伐