西園寺公望
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またゴーチエの『微笑を売る女』という芸者を主題とした戯曲は西園寺に捧げられたものである[23]

その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家ジョルジュ・クレマンソーレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江兆民松田正久岸本辰雄光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、そのころの書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない[24]。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、パリ講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこのころの西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している[25]

明治13年10月21日1880年)には留学を終え、10年ぶりに帰国した[26]
パリ留学後の活動

パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいる」と、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた[27]。この新聞は自由党結党に向けて準備され、明治14年(1881年3月18日に創刊された『東洋自由新聞』であった[27]。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員を務めた[28]。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している[29]。新聞の論調はフランスの共和政治よりイギリス流の立憲君主制が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視や三条実美、兄の徳大寺実則らは社長を辞めるよう強要した[30]。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している[31]。しかし4月8日宮内省に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「内勅」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた[31]。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた[31]
伊藤博文の腹心

明治14年(1881年11月24日、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った[32]。参事院は伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関であった[32]。翌明治15年(1882年)に伊藤が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた[33]。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た [34]。またウィーン大学ではローレンツ・フォン・シュタインに伊藤とともに憲法思想を学んでいる[35]。明治16年(1883年8月4日に帰国し、参事院議官に任じられた[36]。明治18年(1885年)には駐オーストリア=ハンガリー帝国公使となり、再びシュタインに学ぶことになった。また、ウィーン滞在中であった陸奥宗光と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる[37]。翌明治19年(1886年)6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された[38]。明治20年(1887年)6月には駐ドイツ帝国公使兼ベルギー公使となり、9月20日にはローマ教皇庁派遣の特命全権公使を命じられ、日本を離れた[39]ローマを経て12月10日ベルリンに到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは条約改正交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は1年の3分の1はパリで過ごしていたという[40]


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