西園寺公一
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1955年(昭和30年)には、冷戦下でソ連や東ドイツポーランドなどの東側諸国社会主義国)政府の主導で設立された「世界平和評議会」に、日本共産党系の日本平和委員会から「日本代表」として送られた。そのままオーストリアの首都ウィーンにあった評議会執行部に「書記」の身分で単身滞在し3年間を過ごす。
中華人民共和国への移住

この間、1957年(昭和32年)に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる[5]。日本に帰国してから間もなく家族を連れて中華人民共和国へ移住し、中国共産党から「日中文化交流協会常務理事」や「アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長」の肩書と、500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの給与を与えられることになり[6]、同政府の意向を受けて北京にて国交成立前の日中間の「民間外交」を行った。

1958年(昭和33年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の1967年(昭和42年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。なお北京空港事件の現場にも居合わせた。
中華人民共和国からの追放と失脚劉少奇(1966年)

文化大革命による混乱の中で、その「反革命的」な出自と、劉少奇元・国家主席らの「実権派」と親しいとされた立場について強い非難を受け、身に危険が及ぶ可能性も高くなったことから、1970年(昭和45年)8月に各種肩書と給与を捨てて日本へ帰国。事実上の追放であった。

以後は国内で言論活動を行い、かつて自らの給料を出して保護してくれた中国共産党毛沢東江青等を賞賛。また、自らが文化大革命の中で中華人民共和国を事実上追放されたにもかかわらず文化大革命を礼賛し、さらにかつては日中国交正常化に向けて親しく意見交換をしていた劉少奇を強く批判する言動を続けたため、保守派だけでなく、左派の言論人たちからさえ大きな疑念と批判を受けた。

さらに、1970年代中盤に文化大革命が終結しその実情が暴かれたことで、西園寺の主張が完全に的外れなものであることが証明された。さらにその後、中華人民共和国内で文化大革命に対する批判がされた後は、完全に言論人としての立場を失った(後述)。
死去

1993年4月22日に老衰のため86歳にて死去した。
評価
中共のハイファイ

1950年代後半には中国共産党から給料をもらう身となったが、この頃の公一については「中国の忠実な代弁者」「昔、ハイファイを直訳して、高忠実度音響再生装置といったが、役柄としては、そのハイファイである」[7]とも、また「北京の吉良上野之介[7]とも評されている。日中間に国交が無かった当時、イギリス植民地である香港経由で中国共産党政府を訪れた日本人は、まず北京の西園寺邸を訪れた。そのとき、「『新中国』でいかに振舞うべきか粗相のないよう示唆を与える」のが公一の役目だったからというのである。
大躍進擁護

1961年6月に北京を訪れた岡倉古志郎との対談で、大躍進政策の失敗で実際には大量の餓死者が中華人民共和国で発生しているにもかかわらず、「日本でもって人民公社のやり方が悪いから災害が防げなかったというけれども、とんでもない、それは逆なんで、人民公社があったからこそこういうふうに一人の餓死者も出さずに、自分で克服する体制ができたと思うのだ」などと主張した[8]。西園寺は毛沢東を礼賛するアンナ・ルイーズ・ストロングの著書の翻訳などを手掛け、プロパガンダの役割を果たした[8]
文革礼賛

さらに公一は、文革の開始当初にいち早くこれを支持し、毛沢東・江青夫妻や、のちに失脚する林彪などを礼賛した。西園寺が江青のことを「実に清潔な美しさに溢れた人だ」と褒めそやしたので、稲垣武が「肌のきれいな人なんでしょうね」と応じたところ、西園寺は顔色を変えて「君達ジャーナリストはそんな下卑た関心を抱くからダメなんだ」と叱り飛ばした[9]。また文化大革命の意義、意味を疑問視する保守派政治家や言論人、中華民国関係者を非難する言動を繰り返していた。その上に、西園寺の言動は中華人民共和国内で文革の宣伝・扇動にも用いられた。しかし次第に自らもその出自と立場を攻撃されることとなり、1970年(昭和45年)に日本に半ば追放される形で逃げ帰ることとなった。
二転三転

帰国後も文革による混乱の中にある中国共産党を一貫して援護または称賛する姿勢を見せていたが、1976年(昭和51年)の毛沢東の死後に文革が終結し華国鋒によって江青ほか四人組が逮捕されると、西園寺はその態度を豹変した[10]。1981年(昭和56年)、江青らに死刑判決が下ると早速これを支持し、かつては絶賛していた江青を非難するに至った[11][12]。このように言論人として主張が変節したことについて、右派左派を問わず大きな批判を受けている[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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