寺島の木津川沿いや、富島・古川・安治川新地など江戸時代から市街化していた地域もあるが、大半を旧・西成郡九条村が占めていた西部は明治以降に市街化された地域が多い。 西区(に相当する地域)の人口の推移 1970年(昭和45年)56,980人 上町台地から西部に位置し1869年、近世以来の大坂三郷を再編して発足した四大組の一つである西大組の流れを汲む。1875年の大区小区制施行により西大組は第3大区となり、1879年の郡区町村編制法施行により第3大区が西区となった(ただし、のちの西浜町域を除く)。1889年の市制施行により区域と名称はそのまま大阪市の行政区へ移行した。 1897年に西成郡九条村・川南村の木津川以西・川北村の伝法川以南を編入。1925年に港区と此花区を分区。この際、川口・本田地区を除く旧九条村は一旦港区となり、それまで北区だった富島・古川・安治川地区も港区となった。1943年より現在の区域となる。区役所は当初、阿波堀通1丁目に設置されたが、1880年に薩摩堀北之町へ、1893年に江之子島東之町へ、1934年に西長堀北通4丁目(現在地)へ移転された。 木津川および百間堀川より東の下船場・堀江は、近世以来多くの堀川が整備され、雑喉場魚市場、海産物などの問屋街、土佐藩・薩摩藩・徳山藩などの蔵屋敷が立地して栄え、船運が発達した地域であった。また、新町遊廓や堀江新地など遊興の場も作られた。木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、近世初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。
千代崎
江戸時代には寺島、明治以降は松島と呼ばれた、木津川と尻無川に挟まれた中州だったが、尻無川上流部が埋め立てられたため地続きになっている。明治初期に松島遊廓が開設され、大変な賑わいを見せていたが、大阪大空襲により焼失した。江戸時代の新田開発で寺島の南側に誕生した岩崎新田には、大阪市編入と同年に大阪ガスが設立され、ちょうど100年後には大阪ガスの工場跡地に大阪ドームが開場した。
川口
北東端は川口外国人居留地跡、北部は当時の大阪港だった富島にあたる。安治川沿いの河港であるため大型商船が入港できず、外国商人らは早々に川口を去って神戸に移った。その後、居留地の南側の本田の一部にかけて中国商人が入るようになり、日中戦争激化まで小規模ながら中華街が存在した。
安治川
江戸時代の安治川開削に伴って両岸に開発された新地の南半分にあたり、旧河道沿いの富島・古川と同時期に大坂市街へ編入された。日本初の沈埋トンネルである安治川トンネルが対岸の西九条とを結ぶ。
本田・九条
九条駅を挟んで東側にナインモール九条、西側にキララ九条という2つのアーケード商店街が伸び、東側には松島新地もある。境川運河跡付近には工場が多い。
地名
安治川(あじがわ)
阿波座(あわざ)
立売堀(いたちぼり)
靱本町(うつぼほんまち)
江戸堀(えどぼり)
江之子島(えのこじま)
川口(かわぐち)
北堀江(きたほりえ)
南堀江(みなみほりえ)
京町堀(きょうまちぼり)
九条(くじょう)
九条南(くじょうみなみ)
境川(さかいがわ)
新町(しんまち)
千代崎(ちよざき)
土佐堀(とさぼり)
西本町(にしほんまち)
本田(ほんでん)
人口
1975年(昭和50年)50,078人
1980年(昭和55年)53,695人
1985年(昭和60年)58,157人
1990年(平成2年)59,288人
1995年(平成7年)58,674人
2000年(平成12年)63,402人
2005年(平成17年)72,591人
2010年(平成22年)83,058人
2015年(平成27年)92,430人
総務省統計局 国勢調査より
歴史大阪市立花乃井中学校そばにある此花乃井(石見国津和野藩亀井氏の蔵屋敷内にあった井戸)