西ドイツ
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冷戦時代はドイツ民主共和国(東ドイツ)と対峙する分断国家だったが、1990年10月3日、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ再統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで首都ボンに置かれたが、再統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある[1]。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは再統一により再編成された新しい国家ではなく、「領域を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。
占領地から独立へ詳細は「連合軍軍政期 (ドイツ)」を参照1945年以降、ドイツの分割占領

1945年5月8日第二次世界大戦に敗北した国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツ国ナチス・ドイツ)は、ベルリン宣言の発表によって完全に滅亡し、7月のポツダム会談における決定での4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。イギリス軍占領地区とアメリカ軍占領地区は占領円滑化のため、合同してバイゾーン(Bizone、後にフランス軍占領地区とも連合しトライゾーン、Trizoneとなる)を形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。

東西の亀裂が決定的となったのは、1948年6月21日、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨ライヒスマルクレンテンマルク)を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行し、戦後のハイパーインフレーションを収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が6月24日に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルクに対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖し、西側は大空輸作戦で1949年5月12日までの11か月間西ベルリンを支えた(ベルリン封鎖)。

1948年初頭、米英仏とベネルクス諸国はロンドンで会議を開き、ソ連占領地区を除いたトライゾーンのみで制憲会議を開き憲法を制定すること、新憲法下の新国家は占領下で成立した各州が強力な権限を持つ連邦国家となり中央集権制は採用しないことなどを取り決めるロンドン勧告を採択した。1948年7月1日、フランクフルトに集められた各州首相に対して米英仏占領当局より憲法制定にかかわる「フランクフルト文書」が手交された。大筋では新憲法制定はこの方向で進んだものの、ドイツ各州と州民は占領当局によって示された方針には反発し、「基本法」という名の暫定憲法を制定するための「議会評議会」(Parlamentarischer Rat)を開くことで占領軍と妥結した。

各州代表からなる議会評議会は1948年9月1日に発足し、占領当局と激しく対立しながら基本法の案を固め、最終的には占領当局も早急に西ドイツ国家を発足させるためにこの案を認めた。新国家の暫定首都については、議会評議会の多数派や米軍占領当局は候補都市の中でもフランクフルトを好んだが、議会評議会の議長コンラート・アデナウアーは大都市であるフランクフルトを首都とすれば恒久的首都として定着してしまい、東西統一とベルリンへの政府帰還の機運が失われるとして、断固としてボンを推薦し、結局これが通ることになった。

1949年5月23日、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足(ホイス大統領、コンラート・アデナウアー首相)し、10月7日にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ピーク大統領)が成立して、東西に二つの共和国が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後の1961年にはベルリンの壁が建設された。

西ドイツは1955年5月5日主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。

1957年1月1日には、住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザールザールラント州として併合した。
経済改革「ドイツ銀行#分割と再統合」および「en:Schufa」も参照空襲で破壊されたケルン市街(1945年)世界各国へ輸出されたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった

西ドイツは欧州経済共同体(EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位のマーシャル・プラン[注釈 1]ガリオア資金といった援助が朝鮮戦争特需によって実を結び、1950年代末には早々とGNP世界2位に躍進、経済の奇跡ドイツ語: Wirtschaftswunder)[注釈 2]と呼ばれた。西ドイツはヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となった。

しかし、戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、モーゲンソー・プランに基づきドイツを脱工業化するため、連合国軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を財閥解体した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の特許は、敵性資産として連合国に没収された[注釈 3]。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。

なかんずく1948年の通貨改革は試練であった[注釈 4]。6月にライヒスマルクが1/10のデノミネーションをともないドイツマルクへ置き換えられた。また、連邦準備制度にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立のレンダー・バンク(英語版、ドイツ語版)を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、引き出しがその半額に制限された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた[2]

復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は所得税法人税率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では消費税の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として物価が実勢値に跳ね上がった[2]

1950年に勃発した朝鮮戦争は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツにはオーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土や東ドイツからの避難民が溢れていたため、賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。


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