西ドイツ
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1984年 - 1990年リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(再統一時)

首相
1949年 - 1963年コンラート・アデナウアー(初代)
1982年 - 1990年ヘルムート・コール(再統一時)

面積
1990年248,717km²

人口
1990年63,254,000人

変遷
成立1949年5月23日
パリ協定発効1955年5月5日
NATO加盟1955年5月9日
EEC結成1957年3月25日
東西ドイツ基本条約1972年12月21日
国連加盟1973年9月18日
ドイツ最終規定条約1990年9月12日
ドイツ再統一1990年10月3日

通貨ドイツマルク
時間帯UTC +1(DST: +2)
ccTLD.de
国際電話番号49
現在 ドイツ

ドイツの歴史

東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国

西ドイツ(にしドイツ、: Westdeutschland、: West Germany)は、1949年5月23日から1990年10月2日までのドイツ連邦共和国の通称である(略称:西独)。
概要

冷戦時代はドイツ民主共和国(東ドイツ)と対峙する分断国家だったが、1990年10月3日、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ再統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで首都ボンに置かれたが、再統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある[1]。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは再統一により再編成された新しい国家ではなく、「領域を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。
占領地から独立へ詳細は「連合軍軍政期 (ドイツ)」を参照1945年以降、ドイツの分割占領

1945年5月8日第二次世界大戦に敗北した国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツ国ナチス・ドイツ)は、ベルリン宣言の発表によって完全に滅亡し、7月のポツダム会談における決定での4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。イギリス軍占領地区とアメリカ軍占領地区は占領円滑化のため、合同してバイゾーン(Bizone、後にフランス軍占領地区とも連合しトライゾーン、Trizoneとなる)を形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。

東西の亀裂が決定的となったのは、1948年6月21日、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨ライヒスマルクレンテンマルク)を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行し、戦後のハイパーインフレーションを収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が6月24日に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルクに対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖し、西側は大空輸作戦で1949年5月12日までの11か月間西ベルリンを支えた(ベルリン封鎖)。

1948年初頭、米英仏とベネルクス諸国はロンドンで会議を開き、ソ連占領地区を除いたトライゾーンのみで制憲会議を開き憲法を制定すること、新憲法下の新国家は占領下で成立した各州が強力な権限を持つ連邦国家となり中央集権制は採用しないことなどを取り決めるロンドン勧告を採択した。1948年7月1日、フランクフルトに集められた各州首相に対して米英仏占領当局より憲法制定にかかわる「フランクフルト文書」が手交された。大筋では新憲法制定はこの方向で進んだものの、ドイツ各州と州民は占領当局によって示された方針には反発し、「基本法」という名の暫定憲法を制定するための「議会評議会」(Parlamentarischer Rat)を開くことで占領軍と妥結した。

各州代表からなる議会評議会は1948年9月1日に発足し、占領当局と激しく対立しながら基本法の案を固め、最終的には占領当局も早急に西ドイツ国家を発足させるためにこの案を認めた。新国家の暫定首都については、議会評議会の多数派や米軍占領当局は候補都市の中でもフランクフルトを好んだが、議会評議会の議長コンラート・アデナウアーは大都市であるフランクフルトを首都とすれば恒久的首都として定着してしまい、東西統一とベルリンへの政府帰還の機運が失われるとして、断固としてボンを推薦し、結局これが通ることになった。

1949年5月23日、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足(ホイス大統領、コンラート・アデナウアー首相)し、10月7日にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ピーク大統領)が成立して、東西に二つの共和国が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後の1961年にはベルリンの壁が建設された。

西ドイツは1955年5月5日主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。

1957年1月1日には、住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザールザールラント州として併合した。
経済改革「ドイツ銀行#分割と再統合」および「en:Schufa」も参照空襲で破壊されたケルン市街(1945年)世界各国へ輸出されたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった


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