西ドイツ
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経済改革「ドイツ銀行#分割と再統合」および「en:Schufa」も参照空襲で破壊されたケルン市街(1945年)世界各国へ輸出されたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった

西ドイツは欧州経済共同体(EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位のマーシャル・プラン[注釈 1]ガリオア資金といった援助が朝鮮戦争特需によって実を結び、1950年代末には早々とGNP世界2位に躍進、経済の奇跡ドイツ語: Wirtschaftswunder)[注釈 2]と呼ばれた。西ドイツはヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となった。

しかし、戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、モーゲンソー・プランに基づきドイツを脱工業化するため、連合国軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を財閥解体した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の特許は、敵性資産として連合国に没収された[注釈 3]。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。

なかんずく1948年の通貨改革は試練であった[注釈 4]。6月にライヒスマルクが1/10のデノミネーションをともないドイツマルクへ置き換えられた。また、連邦準備制度にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立のレンダー・バンク(英語版、ドイツ語版)を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、引き出しがその半額に制限された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた[2]

復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は所得税法人税率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では消費税の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として物価が実勢値に跳ね上がった[2]

1950年に勃発した朝鮮戦争は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツにはオーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土や東ドイツからの避難民が溢れていたため、賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。これを強みとして西ドイツは諸外国の輸入需要にこたえ、輸出を急激に伸ばした。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。第1回連邦議会は、カルテルを容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業についてはモンタン共同決定法が成立した。これは、11人の監査役に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。

この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭ランツベルク刑務所から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した(第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立)。

1950年代末から1960年代にかけてはガストアルバイター(Gastarbeiter)として、トルコ韓国など諸外国から移民が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。まず1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。ガストアルバイターは1961年にベルリンの壁ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、自然独占の観点からシーメンスをふくむエネルギー企業に認められた[3]

1970年代は波乱であった。1973年1月末にドイツ連邦銀行にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。オイルショックにより1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に欧州諸共同体以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は労働組合代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、連邦憲法裁判所は合憲判決を下した。


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