西インド諸島海賊掃討作戦
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アレン大尉が戦死したことによって、アメリカ合衆国海軍長官スミス・トンプソンは、この戦隊に新しい艦船を購入することをポーター代将に認めた[1]

ポーターは新しく喫水の浅いスクーナー8隻、大型5隻、蒸気駆動川船1隻、貨物用スクーナー1隻を購入した。8隻のスクーナーにはそれぞれ大砲5門を搭載し、USSビーグル、USSフェレット、USSフォックス、USSグレイハウンド、USSジャッカル、USSテリア、USSウィーゼル、USSワイルドキャットと命名された[2]。貨物用スクーナーはUSSデコイ、蒸気船はUSSシーガルと命名された。1823年2月15日、この新しい戦隊はアメリカ合衆国を出てキューバに向かった。ビドル代将も新しい行動命令を受けており、まず地元に情報を与えた場合に限って人の住む地域に上陸部隊を送ることが可能になった。ビドルはまた海賊と対抗する他国の海軍と共同行動を採る命令も受けていた。1823年3月1日、キューバの南でイギリス海軍のHMSグレシアン(大砲6門搭載)がスクーナーのラカタ(大砲8門搭載)を捕獲した。この時の戦闘で30名の海賊が殺され、100名以上いた賊の中で3名のみが捕虜になった。1823年3月にはUSSフォックスがプエルトリコのサンフアンに派遣され、法的に免許状を発行された私掠船のリストと、それらに与えられた支持の詳細を取得することになっていた。フォックスが3月3日にサンフアン港に入ると、砲台から発砲された。何発かがフォックスに当たり、ウィリアム・H・コック大尉が致命傷を負った。ポーター代将は後にプエルトリコ総督からこの事件の謝罪を受け入れた。3月31日、イギリス海軍の艦船タインとHMSスラシアン(大砲18門搭載)が、悪名高い海賊船長カヤタノ・アラゴネスのザラゴサナ(大砲13門搭載)を破った。帆走しながらの闘いとなったこの戦闘では、イギリス艦2隻がザラゴサナをキューバのマタ港に追い込み、ボートを降ろしてその海賊船を捕獲した。海賊10名を殺し、28名を捕虜にしたが、イギリス艦の被害は微少だった。4月8日、アメリカの艀USSガリニッパーとUSSモスキートがアメリカの商船を解放した。海軍兵は海賊2人を殺し、1人を捕まえたが、大半には逃げられた[1]商船を攻撃するカリブ海の海賊、アンブローズ=ルイ・ガーナレイ画

4月16日、モスキート、ガリニッパーおよびUSSピーコックが、キューバのコロラドス沖で1隻のファルーカを視認した。ピーコックがそのファルーカを捕獲することに成功したが、乗組員は岸に逃げ、そのスクーナーの3隻を自沈させた。

1823年6月アメリカのスクーナー、シボレスが海賊に捕まった後、グランパスがその乗組員を救出した。海賊は商船に静かに乗り移り、衛兵を殺し、残っている乗組員は船内の隅に追いつめた。海賊が船内を略奪し火を付けたところに、グランパスが到着し、燃えている船から乗組員を救出した。その数日後、海賊が別の商船を襲ったが、スペイン陸軍に発見され捕まえられた。6月にはUSSフェレットの乗組員が海賊と小競り合いを行った。ある事件の最中に、フェレットはマタンサス沖の浅い海で海賊船数隻を発見した。フェレットはまずその舷側の大砲で、海岸沿いに逃げていた船の2隻を沈めた。水深が浅かったためにボートを使って残っていた船を攻撃したが、アメリカ兵が近付くと、海賊達が発砲してボートに穴を明けたので、ボートはフェレットに戻った後で沈んだ。フェレットの唯一のボートが壊されたので、その後は偵察行動をするしかなく、海賊達は岸に揚がった。その日遅く、喫水の浅い小型船を調達し、ボートが沈んだ所に戻って海賊と戦おうとしたが、悪天候のために作戦は中止された。翌朝フェレットはイギリス商船と出会い、ボートを貰った。フェレットは再度マタンサス湾に戻ったが、前日に沈めた2隻の船が見つかっただけだった[1]

1823年7月5日、ウィリアム・H・ワトソン大尉が指揮するUSSシーガルが、艀のガリニッパーとモスキートと共に、マタンサス沖で海賊と戦った。そこは前年にアレン大尉が戦死した場所に近かった。アメリカ海軍の3艦はキューバのある村近くで、75名が乗り組む武装の厚いスクーナーに遭遇した。アメリカ海軍がその大砲で攻撃すると、そのスクーナーに着弾したので、その船長は撤退を始めた。さらに砲弾がスクーナーに当たり、海賊達は恐慌を来し、海に飛び込んで船を捨て始めた。艀がスクーナーに接近し、乗艦していた水兵と海兵が逃げる敵艦に一斉射撃を行い、その時に「アレン、アレン」と叫んでいた。海賊15名が岸まで辿り着いたが、アメリカ上陸部隊に攻撃された。さらに11名が殺され、最後に残った4名がキューバの村人によって捕まえられた。全体で海賊70名が殺され、5名だけが生き残った。7月21日、ビーグルとグレイハウンドの指揮官がキューバのカペクルスをボートで調査中に、岸からの狙撃を受けた。アメリカ兵はその母船に戻り、翌朝水兵と海兵を上陸させて、出来合いの砦を攻撃し破壊した。海賊は上陸部隊の攻撃を逃れたが、その基地は破壊され、数門の重砲は除去された。ラルフ・ボーヒーズの指揮したUSSシーガルが3月30日に海賊に捕らえられていた商船スクーナーパシフィケーションを取り返した[1]
1824年 - 1825年プエルトリコのカボロホにあるロベルト・コフレシの記念像

西インド諸島戦隊の歴史を通じて、熱帯性の疫病がアメリカの軍艦で流行ることが多く、その場合は母国に戻る必要があった。1824年1月までに西インド諸島戦隊の大半が、主に疫病のために呼び戻されたが、2月にはポーター代将指揮の戦隊が、USSファイアフライを旗艦として数か月間の作戦に戻り、7月には再度北に戻った。この期間、プエルトリコ海域の海賊が1825年半ばまで活動を強め初め、7月と8月には10隻のアメリカ商船が攻撃されたと報告された。このときはアメリカ海軍の数艦しか持ち場に残っていなかった。10月には戦隊の大半が持ち場に戻った。ポーター代将は1825年2月に任務を解かれ、メキシコ海軍に加わった。これは1824年10月にプエルトリコのスペイン当局がアメリカのUSSピーコック指揮官プラット大尉を拘束した後のことだった。この月、海賊がデンマーク領バージン諸島のセントトーマス島を襲撃し、アメリカ人の所有する企業から盗んだ5,000ドル相当の商品を持ってファハルドに戻った。このアメリカ人店主はプラット大尉にその商品の奪還を手伝ってくれるよう頼んだ。10月27日、プラットは海賊に気付かれないよう部隊員に民間人の服装をさせて上陸したが、その結果スペイン軍に逮捕され、海賊行為で告発された。プラットは何故制服を着ていないか説明したので、スペイン当局は隊員の1人が大尉の征服と任命書を持ってくることを認めた。持ってきたこれらの物を確認した後でアメリカ兵は釈放された。ポーター代将はこのことを知ると、USSジョン・アダムズ、ビーグル、グランパスを伴ってファハルドに向かった。そこでは11月14日に部隊を上陸させ、スペインからの謝罪を要求した。最終的にスペインは謝罪を公開することに同意したので、遠征隊は艦船に乗って戻った。アメリカ合衆国政府はポーター代将の行動に満足せず、軍法会議に掛けたうえでその任務から辞任させた。西インド諸島海賊に対するアメリカ軍の作戦は1825年に勝利を宣言して終わったが、その後も時として海賊行為は続いた[1]

1825年3月、ガリニッパーはフリゲート艦HMSダートマスとスクーナー艦HMSライアン、HMSユニオンに伴われ、キューバの海賊に対する作戦行動を行った。アメリカ海軍のアイザック・マッキーバー大尉がサグア・ラ・グランド河口で敵対的なスクーナーに対する攻撃を指揮した。アメリカとイギリスの戦隊はこの船を捕獲し、海賊8名を殺し、11名を捕獲したが、自軍は1名が負傷しただけだった。翌日、別のスクーナーが捕獲されたが、海賊は逃亡したので、無血でその船を確保した。有名な海賊ロベルト・コフレシが3月2日にUSSグランパスとスペインのスループ2隻にボカ・デル・インフィエルノ沖で敗れた。コフレシは成功した最後のカリブ海海賊だと見なされている。コフレシが1825年3月29日に処刑された後、この地域では暫くの間海賊行為は減少した。西インド諸島におけるアメリカ海軍の作戦任務は、1842年までにアメリカ海軍のホーム戦隊とブラジル戦隊に渡されることになった[1]


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