褒章
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このときの受章第1号は、それぞれ金章が松平茂昭、銀章が中井新右門(中井銀行代表、清酒問屋[16])であった[17]

防海事業に対する私財献納の出願は同年9月30日で締め切られ[18]、褒章の授与は願い出た上で献納を済ませた者から順に行われて行き、1894年(明治27年)1月10日の荻野六郎を最後に停止されるまで[19]、金章が54名、銀章が572名、合計626名へ授与された[20]

旧黄綬褒章は、1947年(昭和22年)の内閣官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)により根拠勅令とともに廃止された。旧黄綬褒章(メトロポリタン美術館所蔵)(金)表面(金)裏面(銀)表面(銀)裏面
紫綬褒章紫綬褒章の正章(右)と略綬(左)受章者については「紫綬褒章の受章者一覧」を参照

紫綬褒章(しじゅほうしょう)は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者」に授与される。「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に授与されると説明する[9]

1955年(昭和30年)、褒章条例の改正により黄綬褒章とともに制定された(昭和30年政令第7号)。2002年(平成14年)の栄典制度改正により、「紫綬褒章については、年齢制限を撤廃し、科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術分野における優れた業績等に対して、速やかに表彰する。」とされ[21]、従来50歳以上とされていた年齢制限が撤廃されている。例年、(4月29日)と(11月3日)の2回発令され、学術芸術スポーツ分野の功労者に授与される。

「勲章、記章、褒章等の授与及び伝達式例」(昭和38年7月12日閣議決定)4条は、褒章について、「内閣総理大臣の命を受け、内閣府賞勲局長が所管大臣に伝達し、所管大臣が適宜受章者に伝達する。」と定める[5]。通例、紫綬褒章の伝達式は、東京都内のホテルなどで行われる。また受章者は、伝達式に合わせて、皇居で天皇に拝謁する。

団体に対して紫綬褒章と同様の理由で授与された例としては、2006年(平成18年)のワールド・ベースボール・クラシック第1回大会で優勝した日本代表チーム王貞治監督)が初めてである。

2014年(平成26年)、アテネ五輪ならびに北京五輪の男子柔道金メダリストである内柴正人が紫綬褒章を褫奪(ちだつ。剥奪の意)されている[注釈 6]。褫奪とは勲章褫奪令(褒章等は同6条で準用)に基づく行政処分で、褫奪を受けると官報に掲載され、褒章等は没取され、褒章等の受章者であると名乗ることも認められなくなる。
藍綬褒章藍綬褒章の正章(右)と略綬(左)

藍綬褒章(らんじゅほうしょう)は「教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢(こんぺき。開墾)、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」に授与される。「会社経営、各種団体での活動等を通じて、産業の振興、社会福祉の増進等に優れた業績を挙げた方」、「国や地方公共団体から依頼されて行われる公共の事務(保護司民生委員児童委員調停委員等の事務、国勢調査の調査員参加)に尽力した方」に授与されると説明する[9]

1881年(明治14年)の制度創設時には「公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者」に授与すると定められ、「公衆ノ利益」は「疏河築堤修路墾田ノ業或ハ貧院學校設立ノ類ヲ云フ」と例示された。1894年(明治27年)、「学術技芸上ノ発明改良著述、教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」と改正された(明治27年勅令第1号)。1955年(昭和30年)、紫綬褒章の創設にともない、現行規定に改正された(昭和30年政令第7号)。

1882年(明治15年)、灌漑用水を開通させて荒野を農地に変え村民生活の向上に貢献した大阪府の石田長蔵・久保田伊平が受章第1号、第2号で、第3号から第7号は北海道函館の常野正義・渡辺熊四郎・平田兵五郎・今井市右衛門・平塚時蔵の5人である。戦後は毎年600人から1000人が受章している。2003年(平成15年)の栄典制度改正では、「公衆の利益を興した者に対する藍綬褒章の選考に当たっては、他の模範となるような優れた業績が認められる者を対象とする。また従来「公同の事務」とされている分野について運用の見直しを行い、「勲章の対象との関係を整理する」こととされた。
紺綬褒章紺綬褒章の正章(右)と略綬(左)

紺綬褒章(こんじゅほうしょう)は「公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者」に授与される。

1918年(大正7年)に創設された(大正7年勅令第349号)[22]

1919年(大正8年)9月7日、恩賜財団済生会に5万円[23](平成27年現在の価値で1億5千万円相当[24])を寄付した功により賜与された小野光景が受章第1号である[25]

紺綬褒章は他の褒章のように受章機会が春秋のみに限られず、事由の発生に合わせて毎月末にまとめられ閣議で決定され発令される[3]。寄付を続ければ同一人物が多数回受章することも可能であり、叙勲・褒章などの受章回数でギネス世界記録に認定された古賀常次郎は、紺綬褒章を110回受章している[26]。なお、章の裏面は他の褒章と異なり、「賜」の字や受章者の氏名は刻まれない。

1980年(昭和55年)の授与基準では、国や地方公共団体、公益団体[注釈 7]などへ500万円以上の寄付をした個人、1000万円以上の寄付をした団体が主な対象となる(受けた団体から所管官庁宛てに上申―「この方は褒章を受けるに相応しい事を私共にして下さったので授与して頂きたい」という申し出―がされる)[注釈 8]


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