複都制
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脚注^ 744年天平16年)、聖武天皇が恭仁京を離れて難波に行幸し、一時難波を皇都と定めたが、これも陪都から皇都への昇格で都を移したのではなかった。翌年の平城京への還幸によって再び陪都に戻った。法制史学者の瀧川政次郎は、「従来の日本史では、遷都ということが多すぎる」と指摘している(『京制並に都城制の研究』)。
^ 天皇が大津宮に移ったときには、飛鳥京に留守官(留守司)が置かれていたことが知られる。また、日本書紀続日本紀には「遷都」の記述が散見されるが、編纂者が法制に精通していなかった為と見られる。
^ この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、福原京も正式な設置に至らず離宮にとどまった。また都は置かれなかったが、鎌倉幕府が首都機能の一端を担ったという意味で、鎌倉時代鎌倉を複都制として考えることもできる(山田邦和『福原京に関する都城史的考察』)。
^ 室町時代に栄華を極めた山口のことを「西の京都」という意味で西京(さいきょう、にしのきょう)と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も西京銀行や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、京都府立大学の旧称は西京大学だった。

関連文献

瀧川政次郎 『京制並に都城制の研究』法制史論叢第二冊、角川書店1967年昭和42年)。

喜田貞吉 『喜田貞吉著作集5 都城の研究』 平凡社1979年(昭和54年)。

角田文衛 『ヨーロッパ古代史論考』 平凡社1980年(昭和54年)。

岸俊男 『日本古代宮都の研究』 岩波書店1988年(昭和63年)。

山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2、三星出版、1992年平成4年)。

関連項目





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