複都制
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は、遼の五京制を継承、1138年(天眷元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨?府」を「北京臨?府」に改称、北宋の首都であった開封を「?京開封府」として、七京とした。 1150年(天徳2年)、臨?府から京号を除く。1153年(天徳5年)会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称、これに伴い、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、又、「?京開封府」を「南京開封府」に改称し、五京とした。1173年(大定13年)に会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制であった。

上京会寧府(現在の黒竜江省ハルビン市阿城区白城)

北京臨?府(遼の上京臨?府を継承、1150年京号を除く)

東京遼陽府(遼の京を継承)

北京大定府(遼の中京大定府を継承)

中都大興府(遼の南京析津府を継承)

西京大同府(遼の京を継承)

南京開封府開封市

渤海

渤海では、次の五京が置かれた。

上京龍泉府(現在の黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)

東京龍原府吉林省琿春市八連城)

中京顕徳府(吉林省和竜市

南京南海府(北朝鮮清津市付近)

西京鴨緑府(吉林省臨江市

朝鮮の複都制
高麗

高麗王朝は、正都開京(開城)に、東京(慶州)、西京(平壌)を加え三京とした。8代顕宗の時代の1010年に、南京(漢城、現在のソウル)を加え四京とした。
ローマ帝国の複都制

2世紀後半、ローマ帝国ではディオクレティアヌス帝の時代に帝国の行政区画が東西に分けられ、2人の正帝と2人の副帝によって四分統治された。これにより各皇帝が拠点を置いたニコメディア(イズミット)、シルミウムメディオラヌム(ミラノ)、アウグスタ・トレヴェロールム(トリーア)が各地方の実質的な首都となったが、名目的には元老院のあるローマが帝国全体の首都とされた。その後、西方正帝コンスタンティヌス1世が帝国を統一して東方に新都コンスタンティノポリスを建てた後も、ローマは「唯一の都」として帝国の名目的な首都の座を保持した。

395年には、東帝テオドシウス1世(西帝は形式的に幼い次男ホノリウス)の死により長男アルカディウスが東帝とされ、東西皇帝の拠点が東のコンスタンティノポリスと西のメディオラヌム(後にラヴェンナへ遷都)とに置かれ、ラテン語圏とギリシア語圏となる東西二分が進むことになった。
脚注^ 744年天平16年)、聖武天皇が恭仁京を離れて難波に行幸し、一時難波を皇都と定めたが、これも陪都から皇都への昇格で都を移したのではなかった。翌年の平城京への還幸によって再び陪都に戻った。法制史学者の瀧川政次郎は、「従来の日本史では、遷都ということが多すぎる」と指摘している(『京制並に都城制の研究』)。
^ 天皇が大津宮に移ったときには、飛鳥京に留守官(留守司)が置かれていたことが知られる。また、日本書紀続日本紀には「遷都」の記述が散見されるが、編纂者が法制に精通していなかった為と見られる。
^ この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、福原京も正式な設置に至らず離宮にとどまった。また都は置かれなかったが、鎌倉幕府が首都機能の一端を担ったという意味で、鎌倉時代鎌倉を複都制として考えることもできる(山田邦和『福原京に関する都城史的考察』)。
^ 室町時代に栄華を極めた山口のことを「西の京都」という意味で西京(さいきょう、にしのきょう)と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も西京銀行や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、京都府立大学の旧称は西京大学だった。

関連文献

瀧川政次郎 『京制並に都城制の研究』法制史論叢第二冊、角川書店1967年昭和42年)。

喜田貞吉 『喜田貞吉著作集5 都城の研究』 平凡社1979年(昭和54年)。

角田文衛 『ヨーロッパ古代史論考』 平凡社1980年(昭和54年)。

岸俊男 『日本古代宮都の研究』 岩波書店1988年(昭和63年)。

山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2、三星出版、1992年平成4年)。

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