製菓
[Wikipedia|▼Menu]
イスラム文化と砂糖と十字軍

7世紀イスラム教が成立、それを背景とするイスラム帝国が勃興する。同じ頃ペルシアではサトウキビを発酵させない精糖法が考案され、長期保存が可能になった砂糖は貴重な交易品としてイスラム帝国の拡大とともに東西に広まっていった。711年、イスラム帝国ウマイヤ朝の時代には、北アフリカ一帯も勢力下に収めイベリア半島も征服、地中海沿岸に大きく版図を広げた。それにつれてサトウキビの栽培と精糖技術も地中海沿岸諸国に広がったが、ヨーロッパに広く砂糖が知られるようになるのは、後の十字軍の時代であった。

イスラム教成立以降、キリスト教世界との対立が続き、ヨーロッパにおいてようやく国家的安定が得られはじめた11世紀から13世紀までの200年間、聖地奪還を掲げて幾度もキリスト教圏から東方へと十字軍の遠征が行われた。人の往来は交流を生み軍路の発達は物流を助け、結果として砂糖や香辛料をはじめとする東方の物産がヨーロッパに広まることとなった。だが、イタリア諸都市を通じ地中海貿易でしか得られない砂糖は、貴族や富裕層の間でしか手にできない貴重品であり、そのほとんどが滋養のためのいわば薬用として処方されるもので、菓子製造に利用するのではなく、当初はわずかにふりかけるといった用いられ方だったとも考えられている。また、貴重品であった砂糖の取引はやがて教会の許可制となり、修道院などで薬酒として作られていたリキュール酒の材料として香辛料と共に用いられることとなり、後年、甘いリキュール酒として菓子作りに活かされることとなった。

砂糖だけでなく十字軍のもたらした文物は、ヨーロッパの菓子作りに様々な影響を与えることとなった。小麦の育たない寒冷地でも栽培できる穀物ソバも、十字軍によってヨーロッパにもたらされたもので、フランスではサラザンと呼ばれている。中世においてアラブ諸民族を指す「サラセン」に由来した名だと考えられており、現代でもクレープなど様々な菓子に利用されている。また、フランス南西部に伝わる「パスティス」とモロッコに伝わる「パスティリャ」や、オーストリアの「シュトゥルーデル」とトルコの「バクラヴァ」の形の類似などから、広い範囲での交流があったとも考えられている。

食文化の暗黒期とも言われていた中世であるが、ローマ時代に基本がほぼ完成していた各種の焼き菓子には、砂糖やリキュールなどによるさらなる工夫の素地が用意された時代でもある。さらにインド原産のオレンジレモン、中国原産のアプリコットなどがイスラム世界を経由して、さらに十字軍により運ばれ、砂糖の広まりとともに砂糖漬けにされた果実が、食後のデザートとして用いられるようになり、糖菓としての確立につながることとなる。そして、ブドウ酒や果実のジュースを入れた容器を塩を混ぜた雪や氷の中で撹拌するといった、現代にも通じる氷菓の製造法も伝来し、アラビア語で飲むを意味する「シャリバ」が語源と言われるフランスの「ソルベ」、英語の「シャーベット」といった氷菓もイタリアなどで作られはじめた。

現代欧風菓子の、小麦粉などの焼き菓子を主体としたパティスリー(Patisserie)、糖質が主体となった糖菓であるコンフィズリー(Confiserie)と氷菓であるグラス(Glace)といった大別は、中世の十字軍の東方遠征により図らずも育まれた文化交流によって成立していったとも考えられている。
ルネサンスと大航海時代

ローマの衰亡以降、イタリア半島は統一を欠き紛争が続いていたものの、地中海貿易を担うヴェネツィアフィレンツェなどが都市国家として発展していた。14世紀にこれらイタリアの都市国家が中心となって興ったルネサンスは食文化にも及び、十字軍のもたらしたイスラム圏からの食材を用いて、さらに工夫を重ねた菓子が登場する事となった。

一方、レコンキスタにより1492年、イベリア半島はイスラム支配を脱し、ヨーロッパの他の王朝に先駆けて強力な王権を獲得したスペインポルトガルは、民族主義意識の高まりを背景にイスラーム勢力の駆逐と領土拡張に乗り出すこととなった。新航路の発見は領土と交易品をもたらし、ひいては莫大な富をもたらす。さらに、15世紀にかけてイスラム王朝の一つであったオスマン朝が帝国として台頭、地中海貿易をほぼ掌握したオスマン帝国による貿易関税への不満も加わり、ヨーロッパの各国が外洋へと走り出す、大航海時代となっていった。大西洋を渡り、西インド諸島はヨーロッパ諸国の一大サトウキビ生産地となり、貴重な輸入品であった砂糖をヨーロッパ人自ら精製し手にすることになった。そして、スペインによりチョコレートがヨーロッパにもたらされたのもこの時代であった。
フランスにおけるの集大成

フランス菓子が世界に知られる完成度を得る背景には、ヨーロッパ諸国の興亡と王朝間の婚姻があった。諸侯が割拠していた西フランク王国をまとめたカペー朝1328年に断絶した後、フランスイングランドとの百年戦争に苦しむこととなる。1453年にフランスの勝利で戦争は終結し、以降次第に国力をつけ幾度もイタリアに攻め入り、イタリア戦争を引き起こした。1533年メディチ家カトリーヌ・ド・メディシスが、政略結婚ともいえる形でフランス王アンリ2世に嫁している。カトリーヌは文化的には後進であったフランスにナイフとフォークを持ち込んだと言われ、実際に当時のイタリアの生活様式が全て再現できるよう、料理人や製菓人まで供にしていた。シャーベットマカロン、フランバジーヌ、プティ・フールなど、今日フランスの伝統菓子とも思われているほとんどは、イタリアから伝わったものだとも考えられている。さらにスペイン王家からフランス王家へ、1615年アンヌ・ドートリッシュ1660年マリー・テレーズ・ドートリッシュが嫁ぎ、チョコレートとその調理法もフランスに渡った。ルイ15世に嫁いだポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの娘マリー・レクザンスカは父娘ともに美食家でも知られており、ババやヴァローヴァンを創造したと言われている。1769年オーストリアマリー・アントワネットルイ16世に嫁いだことで、ドイツ菓子の製法も流入する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef