作品はモスクワ国際映画祭グランプリを始め、数々の国際映画祭で受賞、世界60カ国以上で上映された。興行的にも成功し、近代映画協会は解散を免れた。 瀬戸内海に家族4人(夫婦と男の子2人)が住む、電気・ガス・水道がない周囲約500メートルの小島(広島県三原市にある宿禰島(すくねじま))があった。島には平地はほとんどなく、島の頂上辺りのわずかな平地に小屋を建て、ヤギやアヒルと共に住んでいる。島の斜面に春はムギ、夏はサツマイモを植え、生活の糧としていた。長男は小学2年生、次男は未就学であるが、両親を助け家事を手伝っている。夫婦の日課は、隣島まで小舟を漕いで、飲料と畑の作物のための水を汲みに行くことだった。隣島より桶に入れて櫓漕ぎ舟で運んだ水を、島の急斜面を天秤棒を担いで運び上げるのである。時には妻が誤って水をこぼしてしまうが、夫は容赦なく妻を平手打ちにする、それほど厳しい生活が毎日繰り返される。このように農業には条件の悪い土地であるが、夫婦所有の土地ではなく、地代として農作物を納めている。 ある日、子供たちが鯛を釣り上げた。家族4人が揃って笑顔を見せる。妻はよそ行きの衣装に着替え、家族全員で巡航船に乗って尾道の市街へ行き、鯛を売って普段では手に入らない日用品を買ったり、また外食を楽しむこともできた。 ある日、長男が高熱をだす。父が医者を探し、島まで連れてきたが、間に合わなかった。葬儀には僧侶と通学先の担任の先生と同級生が来て、遺体は島に埋葬される。 葬儀が終わり、家族にはまた日常の生活が繰り返される。しかし畑の作物に水をやっている時、妻は突然桶の水をぶちまけ、狂ったように作物を引き抜き始める。そして大地に突っ伏して号泣する。夫は妻の心情を思いやり、ただ見ているだけであった。ほどなく妻は落ち着きを取り戻し、水やりを再開する。この家族にはこの土地で生きてゆくほかなく、今日も明日もこの小島で生活してゆく。 カナダでは新藤の人気が非常に高く[2]、『裸の島』はカナダで最も上映回数の多い日本映画といわれている[2]。また『鬼婆』も映画の古典と評価されている[2]。第8回モントリオール世界映画祭では『地平線』が『海燕ジョーの奇跡』と共に日本から出品され、『地平線』のみコンペティション部門に出た[2]。新藤は同映画祭に出席したが、新藤の出席は映画祭の栄誉として歓迎された[2]。
あらすじ
スタッフ
監督・脚本・美術:新藤兼人
製作:松浦榮策、新藤兼人
撮影:黒田清巳
音楽:林光
キャスト
トヨ(妻):乙羽信子
千太(夫):殿山泰司
太郎(長男):田中伸二
次郎(次男):堀本正紀
協力出演尾道放送劇団・千葉雅子笹島小学校生徒鷲浦安楽寺住職
ロケ地1962年、つまり映画公開2年後の宿祢島。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
宿禰島基本的に無人島。乙羽信子、新藤兼人が亡くなった際には遺骨の一部が散骨された。2011年に、同作のファンであるハリウッド俳優のベニチオ・デル・トロが島を訪問した。デルトロは、過去にも米放映用ドキュメンタリーで新藤にインタビューしたことがある。
佐木島
作品の評価
受賞
1961年:キネマ旬報ベスト・テン 第6位
1961年:第11回ブルーリボン賞 企画賞(新藤兼人)
1961年:モスクワ国際映画祭 グランプリ、作曲賞(林光)
1962年:メルボルン国際映画祭グランプリ
1962年:英国アカデミー賞総合作品賞ノミネート
1963年:マンハイム映画祭グランプリ
1964年:リスボン映画祭銀賞
ベルリン国際映画祭セルズニック銀賞
エディンバラ国際映画祭銀賞
諸国友好のための親善映画祭グランプリ
メキシコ国際映画祭名誉賞
イタリア映画祭監督賞(新藤兼人)
宗教と人間の価値映画祭国際ダグ・ハマーショルド賞
ランキング
1995年:「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネマ旬報発表)第29位
1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第67位
脚注[脚注の使い方]^ 新藤兼人監督の軌跡 裸の島
^ a b c d e クロード・R・ブルーエン/翻訳・大條成昭「モントリオール国際映画祭報告 『地平線』と『海燕ジョーの奇跡』の反響」『キネマ旬報』1984年11月上旬号、キネマ旬報社、90?91頁。
外部リンク
裸の島
朝日新聞(2008年1月19日)