防護巡洋艦の戦術価値低下とともに、防護巡洋艦のうち大型の艦では、再び垂直防御の導入が図られた[9]。これが装甲巡洋艦であり、その端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「デュピュイ・ド・ローム」である[15]。また上記の通り、ロシア帝国海軍が1875年に竣工させた「ゲネラール=アドミラール」は、その先鞭をつけたものとして評価されている[12]。
かつての装甲帯巡洋艦で断念された広範囲の装甲と航洋性能の両立を実現した背景の一つが、製鋼技術の進歩であった。この時期にはハーヴェイ鋼やクルップ鋼のように耐弾性の高い装甲用鋼板が開発され、従来の普通鋼より薄い装甲板でも所期の防弾性能を発揮できるようになっていた。しかしそれでもなお、装甲重量の抑制のためには防弾性能の妥協が必要であり、中口径速射砲に抗堪する程度に留められた。この結果、艦砲の大口径化に伴って装甲板の厚みを増すことができず、自艦の主砲に堪えられない防御力を持つ軍艦として発達していくこととなった[9]。
これらの装甲巡洋艦は、通常の巡洋艦と同様に通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった任務に投入されていたが、19世紀末ないし20世紀初頭には、更にこれを準主力艦として位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動する運用法が生じた。日本海軍の六六艦隊計画(1896年開始)も主力艦として戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を整備する計画であり[14]、日露戦争の日本海海戦にも主力艦として投入されている[14]。
さらに、装甲巡洋艦の攻撃力を戦艦に匹敵するほどに増大させたイギリスのインヴィンシブル級大型装甲巡洋艦が1908年に竣工した[16]。これは、戦艦「ドレッドノート」の影響を受けた単一口径巨砲搭載艦であり、高速力であったが、防御力は従前の装甲巡洋艦と同等であった[16]。この種の艦は、後に巡洋戦艦(Battlecruiser)と類別されるようになった。しかしこれらは、攻撃力に比して弱体な防御力という弱点を有しており、特にこれが顕著だったイギリス海軍の巡洋戦艦は、ユトランド沖海戦において砲塔への直撃弾によって瞬時に轟沈した艦もある[15]。
日露戦争で、日本海軍とロシア海軍の装甲巡洋艦は大いに活躍した[注釈 8]。ロシア帝国海軍のウラジオストク巡洋艦隊(通称浦潮艦隊)は装甲巡洋艦3隻と防護巡洋艦1隻を基幹とし、日露開戦と同時に日本列島近海で通商破壊を実施、日本軍に脅威を与えた(常陸丸事件)[18]。日本海軍の第二艦隊司令長官上村彦之丞中将が率いる装甲巡洋艦6隻(出雲、八雲、磐手、吾妻、浅間、常磐)の巡洋艦戦隊は上村艦隊と呼ばれ、ウラジオ艦隊を必死に捜索し、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を撃破した[18]。