装甲巡洋艦
[Wikipedia|▼Menu]
防護巡洋艦では、船体内の艦枢要部は防護甲板の下で守られており、上部構造物については、ここに浸水が生じても隔壁により防止できるという目論見から無防備に晒されていた。しかし大日本帝国清国との間で日清戦争が勃発し、1894年黄海海戦が生起して巡洋艦を主戦力とする連合艦隊と、定遠級戦艦 (定遠級鐵甲艦) を基幹と北洋艦隊が対決すると、思わぬ戦訓が得られた[注釈 7]。短時間に大量の榴弾を投射された結果、艦枢要部が直撃弾を受けずとも、非装甲部が徹底的に破壊されて戦闘能力を喪失する例が多発した。この戦訓から、垂直防御をもたない防護巡洋艦の価値は急激に衰退した[9]装甲巡洋艦の断面。赤が装甲、灰色が防御区画としても用いる石炭庫。水線部舷側に装甲を有する[14]

防護巡洋艦の戦術価値低下とともに、防護巡洋艦のうち大型の艦では、再び垂直防御の導入が図られた[9]。これが装甲巡洋艦であり、その端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「デュピュイ・ド・ローム」である[15]。また上記の通り、ロシア帝国海軍が1875年に竣工させた「ゲネラール=アドミラール」は、その先鞭をつけたものとして評価されている[12]

かつての装甲帯巡洋艦で断念された広範囲の装甲と航洋性能の両立を実現した背景の一つが、製鋼技術の進歩であった。この時期にはハーヴェイ鋼やクルップ鋼のように耐弾性の高い装甲鋼板が開発され、従来の普通鋼より薄い装甲板でも所期の防弾性能を発揮できるようになっていた。しかしそれでもなお、装甲重量の抑制のためには防弾性能の妥協が必要であり、中口径速射砲に抗堪する程度に留められた。この結果、艦砲の大口径化に伴って装甲板の厚みを増すことができず、自艦の主砲に堪えられない防御力を持つ軍艦として発達していくこととなった[9]

これらの装甲巡洋艦は、通常の巡洋艦と同様に通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった任務に投入されていたが、19世紀末ないし20世紀初頭には、更にこれを準主力艦として位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動する運用法が生じた。日本海軍の六六艦隊計画1896年開始)も主力艦として戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を整備する計画であり[14]日露戦争日本海海戦にも主力艦として投入されている[14]

さらに、装甲巡洋艦の攻撃力を戦艦に匹敵するほどに増大させたイギリスのインヴィンシブル級大型装甲巡洋艦が1908年に竣工した[16]。これは、戦艦「ドレッドノート」の影響を受けた単一口径巨砲搭載艦であり、高速力であったが、防御力は従前の装甲巡洋艦と同等であった[16]。この種の艦は、後に巡洋戦艦(Battlecruiser)と類別されるようになった。しかしこれらは、攻撃力に比して弱体な防御力という弱点を有しており、特にこれが顕著だったイギリス海軍の巡洋戦艦は、ユトランド沖海戦において砲塔への直撃弾によって瞬時に轟沈した艦もある[15]

日露戦争で、日本海軍とロシア海軍の装甲巡洋艦は大いに活躍した[注釈 8]ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(通称浦潮艦隊)は装甲巡洋艦3隻と防護巡洋艦1隻を基幹とし、日露開戦と同時に日本列島近海で通商破壊を実施、日本軍に脅威を与えた(常陸丸事件[18]。日本海軍の第二艦隊司令長官上村彦之丞中将が率いる装甲巡洋艦6隻(出雲八雲磐手吾妻浅間常磐)の巡洋艦戦隊は上村艦隊と呼ばれ、ウラジオ艦隊を必死に捜索し、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を撃破した[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:117 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef