袞衣
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しかし、の境の頃から五爪龍が一般的になった[24]

延祐元年(1314年)、元朝第4代皇帝・アユルバルワダ(仁宗)は龍を「五爪ニ角」と定義し、鳳凰とともに龍の文様を皇帝以外が使用するのを禁じた[25][注 2]。これ以降、中国では龍は五爪が一般的となった。元朝はモンゴル人が支配する異民族王朝であり、品位や民族に応じて使用可能な文様、素材、色を制限して支配を強化しようとした。『華厳宗祖師絵伝』に描かれた龍、鎌倉時代、13世紀初頭。

明代になると、この制限が緩和される。明代初期には一品から六品までは四爪龍の使用が許可された[26]

永楽15年(1417年)、永楽帝が藩国の王に「金?蟒龍」という文様の服を下賜している[27][28]。蟒(うわばみ)は大蛇のことで、龍と区別した。このときの蟒龍の爪の数は不明だが、明代には五爪と四爪の蟒があった[29]

龍、蟒以外にも、似た文様に飛魚(ひぎょ)、斗牛(とぎゅう)があった。飛魚は背に翼翅があり四爪で、斗牛は水牛のような曲がった角があり四爪か三爪が特徴で、いずれも龍に似ていたが区別された[30]。こうした区別はおおむね清代になっても継承された。

袞衣も含めて、日本の龍に三爪が多いのは中国から属国扱いされたからだという説が一部で唱えられているが、日本が袞衣を導入したのは嵯峨天皇の820年であり、当時の唐でも三爪龍が一般的であり無関係である。

明代には朝貢国に対して皮弁服を下賜し、清代になると布を下賜してそれぞれ独自に国王の服を制作したが、日本の天皇は朝貢しておらず、独自に袞衣を制作したので、中国の規則に制限されることはなかった。

日本の袞衣の龍の前脚片側だけが四爪である理由は不明だが、キトラ古墳や高松塚古墳に描かれた青龍の前後脚の爪が手前側は三爪なのに奥側は四爪で描かれているという説があり[31]。それゆえ、古代からの意匠を継承した可能性もあるが、後光明天皇の礼服形の龍の爪はすべて三爪なので、詳しい経緯は不明である。
中国[ソースを編集]

代には、祭祀に応じて天子が着用する礼服が6種類あり、「六冕」と呼ばれた[32]。このうち先王を祀る際に着用する礼服が袞冕であった。袞冕とは袞服(巻龍衣)と冕冠という意味である。袞服の意匠の詳細は不明だが、後世に儒学者たちによって龍を含む十二章を配した礼服と解釈された[33]

始皇帝は六冕を廃止し、?玄(きんげん)と呼ばれる黒一色の礼服に変えた[34]前漢でも袞冕は用いられなかった。

後漢明帝のとき、冕冠とともに袞服が復活した。上衣は黒色(玄)、下衣(裳)は赤色(?)。以後、中国皇帝の袞服は基本的に「玄衣?裳(げんいくんも)」に十二章を配したものになった。

天監7年(508年)、の武帝(蕭衍)は『周礼』にあった六冕の最上位の「大裘冕(だいきゅうべん)」を再興した[35]。裘は羊の毛皮のことであるが、再興された大裘冕の礼服は上衣が黒の絹布、下衣の裳は赤色で、いずれも文様や刺繍がなく、冕冠は旒のないものであった。

明代には、冕服で着用する袞衣のほかに、袞龍袍(こんりょうほう)と呼ばれる龍の刺繍を施した円領の袍があり、これも袞服や袞衣と呼ばれた。袞龍袍を着用する際には、冕冠ではなく翼善冠をかぶった。

大裘冕。『新定三礼図』より

袞冕。『新定三礼図』より

明王朝万暦帝の冕服

明王朝嘉靖帝の翼善冠と袞龍袍

日中共通の特徴[ソースを編集]
大袖

赤地に、袞冕十二章のうち、「日・月・火・山・龍・星辰・華虫・宗彝」の8種の文様が付く。各文様は刺繍であらわされる。建武四年の光明天皇即位のとき、別の絹に刺繍して貼り付けた。近世の遺品では、東山天皇御料は直接生地に刺繍があるが、孝明天皇御料では共裂の小片に刺繍して縫いつけている。

日:左肩に配され、日の中に烏が描かれている。

月:右方に配され、月の中に兎と蟾蜍(ヒキガエル)が描かれている。

七星:北斗七星を背上部に配する。

山:身の前後に配する。

龍:袖部前後に大型の巻龍、身の前後に小龍を配する。

華虫:雉の意。身の前後に配する。

宗彝:祭器に描かれた虎(勇)、猿(智)で、祭器の象徴。身の前後下部に配する。


大袖と同じ赤地に、袞冕十二章のうち、藻、粉米、黼(ほ、斧の形)、黻(ふつ、「亜」字形)の四種の文様が付く。
脚注[ソースを編集][脚注の使い方]

注釈^ 原文は、「我覯之子,袞衣?裳」。
^ 原文は、「蒙古人不在禁限,及見當怯薛諸色人等,亦不在禁限,惟不許服龍鳳文。龍謂五爪二角者」。

出典^ 上田 & 松井 1940, p. 726.
^  「九?」(中国語)『詩經』。ウィキソースより閲覧。 
^  「卷八」(中国語)『毛詩正義』。ウィキソースより閲覧。 
^ 本田 1977, pp. 637?638.
^ 本田 1977, p. 638.
^ 関根 1915, p. 27.
^ 仁井田 1933, p. 395.
^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1177-1178/3563).
^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.679-680/3563).
^ 黒坂 1939, p. 213.
^ 米田雄介「礼服御冠残欠について―礼服御覧との関連において―」
^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 1940, 「正倉院御物出納文書(7)」.
^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 1940, 「正倉院御物出納文書(11)」.
^ 帝室博物館 1929, p. 65.
^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1246-1247/3563).
^ 黒坂 1931, p. 310.
^ a b c 竹内 1967, p. 256.
^ 松本, 郁代「中世の「礼服御覧」と袞冕十二章--天皇即位をめぐる儀礼と王権」『立命館文學 = The journal of cultural sciences』第587号、立命館大学人文学会、2004年12月、324-346頁。 
^ “礼服形 (寛永・後光明天皇即位時ヵ)”. 宮内庁 (2023年9月). 2024年3月21日閲覧。
^ 京都国立博物館 2020, pp. 213?214.
^ 京都国立博物館 2020, p. 214.
^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1345/3563).
^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1090/3563).
^ a b 藤枝, 晃「千仏洞の龍」『日本美術工芸』第304号、日本美術工芸社、1964年1月、15-20頁。


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