この間、曹操が徐州の陶謙を攻撃すると、朱霊を援軍に派遣し支援した。また、張?・陳宮が呂布を呼び入れて、?州において曹操に対して反乱を起こしたときも、曹操を支援した。青州を任せていた臧洪を東郡太守に任命したが、臧洪が恩義のある張超を支援しようとしたため、敵対関係となり、やむなくこれを討ち果たした。青州には長男の袁譚を送り込み、袁譚は孔融を追い払い青州の支配を固めた。また并州方面には高幹を派遣した。徐州は陶謙の没後、劉備が継承していたが、袁紹は劉備の支配を容認し、劉備も袁譚を孝廉に推挙するなど友好的な姿勢を示したが、袁術も徐州を狙っており、劉備はやがて呂布にその地位を奪われた。
献帝が長安を脱出してくると、献帝を擁立するか否かを巡って家臣団が対立した。結局、曹操が献帝を許において擁立すると、人事や官位の任免に干渉し、建安2年(197年)には曹操を押しのけて大将軍に任じられ、使持節・大将軍・督青幽并三州諸軍事・冀州牧・?郷侯を名乗った。
袁紹が公孫?を滅亡寸前まで追い込んでいたころ、曹操は張?・劉表・袁術・呂布といった敵を抱えて東奔西走を余儀なくされていた。袁紹は挑発的な手紙を送ったため、曹操の心中は穏やかではなかった。198年、曹操は呂布を降したが、その前後から袁紹に敵対姿勢を示すようになり、翌年には張?と張楊の勢力を吸収し、公孫?を滅ぼした袁紹と並ぶ、中原の二大勢力になっていった。 199年、袁術が帝位を自称したものの零落し、袁紹に身を寄せることを申し出てくると、袁譚に袁術を迎え取らせようとしたが、曹操の命令を受けた劉備に阻止された。 同年、劉備が徐州にて曹操に反乱を起こし、袁紹に救援を求めてきた。配下の田豊は、この機会に曹操を滅ぼすべしと主張したが、袁紹は子供(袁尚)の病を理由に断った。曹操はこの時、青州に遊軍を送って牽制しつつ、既に黄河に布陣していたが、袁紹が未だ攻めてこないことを知ると、200年には自ら軍勢を反転させて劉備を追い散らした。敗れた劉備は袁譚の元に身を寄せたので、袁紹はこれを匿った。 袁紹は南征の意思を固め、陳琳に書かせた檄文を自らの支配する四州へ出し、後世に「官渡の戦い」と呼ばれる一大戦役に臨んだ。この際、沮授や田豊は持久戦を主張し、郭図や審配らは速戦を主張したが、袁紹は後者の言を受け入れた。この速戦戦略の不利益を頑なに主張する田豊を、袁紹は遂には投獄してしまった。 建安5年(200年)2月、袁紹は遂に軍を発し河南へ向けて侵攻を開始した。緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る袁紹軍はじりじりと曹操陣営を圧迫し、陽武から官渡へと曹操軍を破って進軍した。官渡の砦を防衛線にした曹操軍に対し、袁紹は土山を築いたり地下道を掘り進めたりなどしたが、曹操軍も同じく土山を築くなどしてこれに対抗した。 秋に入ると、曹操領豫州汝南郡(袁紹の出身地でもある)では黄巾の残党であった劉辟や?都が反乱を起こし、袁紹は劉備を送ってこれを支援した[14]。また、曹操軍内では兵糧が枯渇し兵が疲弊、袁紹に投降を考えて内通する者が続出した[15]。曹操は一時的な退却を考え、荀ケに相談していた。 袁紹は?元進
曹操との決戦
10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降した[16]。許攸は淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫の所在を暴露した。曹操は本陣の兵力の過半を裂いて出陣、敵の哨戒網を突破して、烏巣を強襲した。沮授は兵糧守備の懸念を再度直訴したが、袁紹の不興を買って斥けられ、郭図の目論む(俄か仕込みの)囲魏救趙の計(半数の兵で手薄の敵本陣を攻め、残りの兵で烏巣に援軍する)が採用された。だが、折角の計略も狙いを絞ることが出来なかったために、味方のいずれもが敗退した。結果、烏巣の兵糧庫は炎上陥落し、淳于瓊は敗死した。これが大きな打撃となり、さらに曹操の本陣を攻撃していた高覧・張?らの寝返りなどもあり、袁紹は冀州に敗走した。
201年4月、倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた(倉亭の戦い)[17]。
敗戦後、冀州の各地で反乱が勃発したが、袁紹は軍勢を立て直すと全て鎮圧した。また、曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。
しかし建安7年(202年)5月、袁紹は発病し、苦悶の内に血を吐いて死去した(『三国志』魏志「袁紹伝」)。ふだん民衆に仁政を行ったため、この死を聞いた河北の百姓たちは嘆き悲しんだという(『献帝春秋』)。 袁紹は生前に明確な後継者を選んでいなかった。このことが彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図・辛評ら)と末子の袁尚派(審配・逢紀ら)に分裂する。建安9年(204年)に曹操が袁氏の本部である?を攻め落とした。甄夫人を含む袁氏一族の妻子が落城の際に乱取りされたという[18]。後、曹操は袁紹の墓を祀った。袁紹の本妻である劉氏を慰労し、絹や米を賜った。 袁譚・袁尚は相続を巡り骨肉の争いを繰り広げ、その間隙を曹操に付け込まれた。建安10年(205年)には袁譚を、建安12年(207年)には袁尚を討ち取られ、袁氏は滅亡した。 『三国志』の編者である陳寿は、「袁紹の威容は堂々としており、名声は天下に轟き、河北に割拠した」と前置きしながらも、やはり同じく群雄であった劉表とをまとめて「しかし、外面は寛大に振舞いながら内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。また、優れた人物がいても用いることができず、忠言を聴いても実行できなかった。長子を廃して庶子を後継ぎにしようと考え、礼儀を捨て個人の情を重んじた。だからその死後、子孫が困窮し、領地を失ったのは当然であった」と評している。曹操や孫権の後継争いの際にも、袁紹と劉表は悪しき前例として言及されている。 袁紹は『三国演義』始め、多くの三国志創作では名門の出自によって出世しただけの暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像が記録されている。
死後
評価
人物・逸話
袁紹の母親は婢女であり[19]、凡才であれば、もともと名が史書に記録されるような立場にはなかった。
「容貌端正」[20]「姿貌威容あり」[20]「姿弘雅」[21]とあり、秀麗な容姿であった。しかし、「体長婦人」[22]とも記されており、小柄な人物であったことが分かる。
後漢末期当時、四つの州を支配した袁紹は最も強盛であるとされた[10]。劉?は上奏文の中で「孫権・劉備の実績は袁紹の事業と比較にならない」と言っている[23]。
おっとりとして上品で、喜怒哀楽の感情を表さなかったと言われる[24]。
魏郡の軍勢が謀叛を起こし黒山の于毒と結んで?城を攻めたという一報が入った時、その場にいた席上の客達は動揺し、中には泣き叫ぶ者もいたが、袁紹は顔色を変える事もなく泰然自若としていた[24]。
公孫?配下の騎兵二千騎余りが突如来襲してきた時には田豊が避難させようとしたが、袁紹は兜を地面に叩きつけて「大丈夫たる者は突き進んで戦死するものだ」と言った[24]。
漢末期の王公の間で雅であるとされた幅巾という幅の広い絹の頭巾を被っていた[25]。
帰郷の際、人物評価で名声の高い許劭の目を気にして、車一台だけで帰った[26]。
敵対している立場から郭嘉が「袁紹は人民、蛮人に恩を施していたから、袁紹の息子たちが生きていられるのです」と発言し[27]、荀攸が「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していました」[28]と発言しており、袁紹の死を民百姓が嘆き悲しんだ事から[29]、仁政を執り行った事が分かる。
親族
袁湯(祖父)
袁成(父か養父)[30]
袁逢(叔父か生父)
袁隗(叔父)
袁基
袁術(嫡弟か従弟)
袁遺(従兄)
楊彪妻(姉か妹)
高躬妻(姉か妹)
劉氏(後妻)
袁譚(長男)
袁煕(次男)
袁尚(三男)
袁買(四男、一説は兄の子)[31]
高幹(甥)
李宣(姻族)
配下
閻柔
王修
応劭
王摩
郭図