衣笠貞之助
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この2作には自ら出演もしており、女形姿の衣笠が撮影技師の田中十三に「そこで絞って頂戴な」とカメラを指定したのは、後々まで話題となった[19]
マキノ映画時代1923年頃の写真

同年11月25日国際活映再建のための引き抜きで、衣笠は藤野、横山、島田嘉七新井淳東猛夫ら12名の俳優とともに日活を退社[16]。国活巣鴨撮影所で坂田重則監督の『鷲津村の娘』『老僧の恋』などに出演するが、1923年(大正12年)に国活を退社し、同志数人と連鎖劇団の衣笠貞之助一座を結成する[16][20]滝野川中里のオープンセットで自作自演の『悲しき結婚』を撮り、群馬県から愛知県を実演巡業した[21][22]。同年、名古屋で出演中に再び牧野に招かれ、創立したばかりのマキノ映画製作所に参加[16]。同製作所第1回作品の『二羽の小鳥』は『妹の死』の再映画化で、同社最初の封切作品の一本であった[19]。以後は監督専門となり、現代映画の監督はほとんど衣笠が一手で引き受けた[19]。大作『金色夜叉』は前後篇からなり、後篇のセット撮影中に関東大震災に遭遇[19]1924年(大正13年)に森岩雄のシナリオによる『恋』『寂しき村』を監督するが、前者は風俗上好ましくないとの理由、後者は馬車とタクシーの生存競争が社会的に刺激をあたえるとの理由で、地方では警察から上映禁止になるところもあった[19]。そのほか初の時代劇映画となった『桐の雨』[19]阪東妻三郎主演の『恋と武士』などを撮った。

1925年(大正14年)、直木三十五が設立しマキノと提携した連合映画芸術家協会の第1作で、沢田正二郎主演の『月形半平太』を監督。沢田の多忙なスケジュールの合間を縫って、不眠不休でわずか8日間のうちに撮影を完了した作品だが[23]新国劇の当り狂言の映画化ということもあり大ヒットした。続いて市川猿之助主演で『日輪』と『天一坊と伊賀之亮』を監督。前者は卑弥呼を題材としたものだが、卑弥呼は当時神功皇后天照大神だったという説があったため、右翼団体が「皇室を冒涜した」として不敬罪で告訴するという騒動が発生し上映が中止された。
松竹時代

1926年(大正15年)、誰からも掣肘を受けず、自由に思いのままの映画を作ろうと決意した[24]衣笠は、マキノのもとを離れ、新感覚派の作家である横光利一川端康成片岡鉄兵岸田国士らと新感覚派映画聯盟を結成して『狂つた一頁』を製作した。日本映画初のアヴァンギャルド映画と呼ばれ、多重露光フラッシュバックなどを用いた斬新な映像表現が高く評価されたが、興行的には赤字となり、この1作限りで連盟は解散。負債返済のため、衣笠映画聯盟を名乗って松竹下加茂撮影所で時代劇映画の請負製作を行うことになった。1927年(昭和2年)に『お嬢吉三』で新人の林長二郎を起用し、以後林の主演で『鬼あざみ』『女夫星』『弁天小僧』『海国記』などの時代劇映画を発表した。『海国記』は、海外渡航禁制時代に南方へ渡った若者の悲恋を描いたエピック的傾向の作品で[25]、九州や北陸の海岸でロケを敢行し、数百人のエキストラを使って撮影した野心作である[26]

1928年(昭和3年)、「時代劇から剣を奪え」をスローガンに掲げた、実験的な時代劇映画『十字路』を製作。公開後の5月16日に松竹を退社し[27]、『十字路』のフィルムを携えて渡欧[28]。聯盟はこれを機に解消した[29]。ヨーロッパへの途次、衣笠はソ連に滞在し、プドフキンエイゼンシュテインらと会い、宮本百合子湯浅芳子亀井文夫らとも交流を深めた[28][30]。また、エイゼンシュテインとは市川左團次のモスクワ公演を一緒に見に行っている。1929年(昭和4年)2月、ベルリンに渡って千田是也の下宿に投宿[31]


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