衣笠祥雄
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1974年、7月14日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)では2点を追う9回二死一、二塁の打席で浅野啓司から逆転サヨナラ3点本塁打を放った[12]

1975年にはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人の長嶋茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、三塁手にコンバートされる[13]ゲイル・ホプキンスが「一塁手がいい」と言ったのも、コンバートのきっかけとなっている[14])。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との2打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている[13][15]。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、6試合通算26打数3安打1打点と不振を極めたが、第5戦では2回に山田久志から先制本塁打を放っている。また同年は初のベストナイン(三塁手)に選出された。

1976年、7月7日の対巨人戦(札幌市円山球場)では1回に本塁打、3回に単打、5回に二塁打、6回に三塁打を放ち、サイクル安打を達成[16]。シーズンでは盗塁王のタイトルを獲得[17]

1979年はシーズン序盤から打撃不振に陥り、代打代走守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の対中日ドラゴンズ戦(岡山県野球場)で先発メンバーから外す決断に踏み切った[18]。1974年4月17日以来連続フルイニング出場の記録を続けていたが、三宅秀史(元阪神)の持つ日本プロ野球記録の700まであと22試合と目前に迫りながら、678試合で記録が途絶えることになった[19]。ただし、6回裏に代打で出場したため、70年10月19日以来続いている連続試合出場の記録は継続することになった。先発メンバー発表と同時に衣笠の記者会見が用意され、「野球の選手だから、悪ければ交代も仕方がない」「三宅さんまではいきたかった。後悔しないよう一生懸命にやってきたんだが」「ただ、何度もフル出場はダメかと思うようなけがをしながら、自分から投げ出さずにがんばれたことだけは満足している」、などと語った[20]。だが、江夏豊の著書によると、先発出場から外れる事が分かると、手当たり次第に物を投げ飛ばすなど、大荒れだったという[21]

8月1日の対巨人戦(広島市民球場)では西本聖から死球を背中に受け[22]、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録が途切れる危機が訪れた[23]が、翌2日の試合で代打として姿を見せた[24][25]江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた[24]

1980年、6月22日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では1点を追う8回一死満塁の打席で工藤一彦から逆転満塁本塁打を放った[26]。7月29日の対ヤクルト戦(広島市民球場)は飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、ノーゲームが宣告された[27]。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録[28]、8月4日の対巨人戦(後楽園球場)で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された[24][29]

1981年、9月13日の対中日戦(広島市民球場)では1試合3本塁打を放った[30]

1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った[24]

1983年、4月9日の中日との開幕戦(広島市民球場)では2点を追う5回一死満塁の打席で堂上照から[31]、5月7日の対横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)では9回二死満塁の打席で増本宏から[32]、6月2日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では3-3の同点で迎えた4回二死満塁の打席で池内豊からそれぞれ満塁本塁打を放ち[33]、同年は3本の満塁打を放った。8月9日の対阪神戦(広島市民球場)で小林繁から史上16人目となる通算2000安打を達成[34][35]日本プロ野球名球会会員となる。

1984年より、コーチ兼任(以降、引退まで)[注 2]。9月29日の対中日戦(広島市民球場)では5-5の同点で迎えた9回二死一、二塁の打席で牛島和彦からサヨナラ安打を放ち[37]、プロ入り初めてシーズン100打点目を挙げた[38]。同年は37歳にして102打点を記録し、谷沢健一に3点差をつけて三冠初タイトルとなる打点王を獲得[39][40]。また自己最高の打率.329(3位)を記録し、自己2位タイの31本塁打を放つ。首位打者の篠塚利夫が.334、本塁打王の宇野勝掛布雅之が37本を放ったことを考えると、ちょっとした違いで三冠王を獲得してもおかしくない成績であったと言える。同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴って最優秀選手(MVP)にも輝いた[41]。オフの12月11日の契約更改では50パーセント増の年俸6000万円(推定)でサインした[42]1986年に着用した背番号3のユニフォーム

1986年、6月7日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で2000試合連続出場を達成した[43]が、この時点で打率は.224と低迷。6月14日に野村克也の抜き通算三振記録が1位となる、2000年6月1日に秋山幸二が更新[44]。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となった[24]
2130試合連続試合出場世界記録

メジャーリーグベースボールルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。


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