衣服
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こうしたファッションは短期間に変動を繰り返すが、中には完全に一つのスタイルとして定着するものもある[25]

一方で、衣服は着用者の美意識をそのままあらわすものであり、個性を示す手段ともなっている[26]。着用する衣服は他者からの第一印象を決定づけるものであり[15]、これを利用して他者に自らの望むイメージを抱かせることも行われる[27]。この「流行への追随」と「個性の強調」は本質的に対立する概念であるが、衣服の選択場面においては併存しており、両者とも非常に重視されている[28]

コルセットによる身体圧迫のように、身体装飾の欲求が実用性の欲求を上回った場合、身体保護機能や体形を無視した衣服が着用されることは歴史上しばしば見られる[29]
被服の歴史
起源

人類がいつから被服を着用したかははっきりとしていない。衣服の起源を7万年前から7万5千年前に、現在はインドネシア領であるスマトラ島トバ火山大噴火を起こして地球規模の気候寒冷化[30]を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えたトバ・カタストロフ理論に関連づける者もいる[31][32][33]。その論拠として、ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、すなわち主に毛髪に寄宿するアタマジラミ(Pediculus humanus capitis)と、主に衣服に寄宿するコロモジラミ(Pediculus humanus corporis)に分けられ、近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっている[31]。そこでシラミの研究者らは、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、ヒトが衣服を着るようになったのではないかと推定している[32]

なお、人類のアフリカ単一起源説ではヒトの共通の祖先は14?20万年前にアフリカにいたと考え、ヒトがアフリカからその他の地域へ移住を始めた(人類の進化#出アフリカ説)時期を7万から5万年前としている[34][35]

当初の衣服は毛皮などの自然素材をそのまま身につけていたと考えられているが、紀元前25000年頃にはによって素材が縫製され、衣服が誕生した[36]。やがて繊維の塊から紡ぐ技法が開発され、さらにその糸どうしを組み合わせることで、を織ることが可能となり[37]、これが衣服素材の主流となっていった。先史時代の遺跡(洞穴壁画など)には、身体の表面を布、毛皮、植物を編んだり束ねたりしたもの(や腰蓑)などを身に付けた様子が描かれた[要出典]。織物による衣服は紀元前7千年紀には発明されていた[36]。日本においては、アサの実の発掘資料が分布し[38]縄文時代後期(約3200年前)の編み込み模様のある布[39]や、鳥浜貝塚(福井県)より縄文時代草創期のアサ繊維が出土し[40][41]千葉県の沖ノ島遺跡(館山市)から発掘されたアサの仲間の果実化石はアサ(Cannabis sativa)と同定されると、同種の記録は2008年時点の世界最古であった[42]。縄文期の服装[43]を知る手がかりとなる物証[44]として注目されている[要出典][注 2]
古代から近代

被服の誕生以降、長きにわたって自給自足の時代が続き、その入手、製作の困難さにもかかわらず全ての人にとっての必需品だったために非常に価値のあるものであった[要出典]。被服の原料である布が、その有用性と希少性のために古代においてはしばしば貨幣としての役割を持ち、中国や日本においては租庸調のうちの「庸」または「調」として租税のうちに組み入れられていた[47]ことは、その表れである。社会上層を除いては所持点数も少なく、奈良時代の下級役人層では所持する衣服を洗濯するには、わざわざ休暇を申請することも珍しくなかった[48][49]

古典古代期に利用された衣服は、トーガのように幅広の布を体に巻き付けるか、一枚の布を袋状に仕立てて首と腕を出す部分に穴を開けたチュニックポンチョ)やガウンの類であった[50]。これらの衣服は、布地を体型に合わせて裁断することなく仕立てるために、着るというよりも纏うものであり、ひだが多く緩やかなラインになる特徴がある[50]中世初期に中央アジアテュルク系騎馬民族が、布地を体型に合わせて裁断し前開きに仕立てたカフタン革靴を使用するようになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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