歴史学的には衛氏朝鮮は先行する檀君朝鮮、箕子朝鮮とともにいわゆる古朝鮮の一つとして扱われる[2][注釈 1]。
司馬遷の『史記』によれば衛氏朝鮮の建設は楚漢戦争から前漢初頭の中国の政治情勢と密接に関わっている。前漢の高祖の時代の前202年、燕王臧荼が反乱を起こして処刑され、代わって盧綰が燕王に封じられた。しかし漢で建国の功臣に対する粛清が進展する中で燕王盧綰にも謀反の嫌疑がかけられ、さらに高祖が死亡し呂后が政権を握ると、身の危険を感じた盧綰は前195年頃匈奴へと亡命した[4]。この時、燕に仕えていた満(衛満)という人物が身なりを現地風にかえて?水(?水は議論があり、武田幸男は鴨緑江としている[5]。一方、中国の研究者の通説では、?水は清川江である[6])を渡り、徒党1,000人を率いて朝鮮へと逃れ国を建てたという[4][5]。秦・漢の混乱期以来、朝鮮に逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていたとされる[7]。
ある伝説では朝鮮に渡った衛満は朝鮮王の準王に仕えて博士となり、その西部国境の守備にあたった。さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれて勢力を蓄え、前漢の攻撃から準王を守るためと偽って王都に乗りこみ、準王を襲撃した。準王は対抗することができず逃亡し、韓の地に至って韓姓を名乗り韓王を称するようになったとされている[8][7]。この伝説はほぼ同時代の出来事として衛氏朝鮮を取り扱う『史記』には記されておらず、3世紀頃に成立した『魏略』に見えるものであり、後の楽浪郡時代に活躍する韓氏が自分たちの祖先を朝鮮王に結び付けようとして作り出した逸話であるとも言われる[8]。
いずれにせよ、衛満は漢からの亡命者や現地民の在地勢力を糾合して朝鮮の地で一つの王国を成立させた[9]。その都は王険城
に置かれ、これは現在の平壌にあたる[9]。衛氏朝鮮の支配する領域がどれほどの規模だったのかははっきりわからないが、日本の研究者田中俊明は「朝鮮半島西北部を支配したものと考えられるが、それ以上、広く支配をおよぼしたとは考えにくい」としている[9]。衛満は漢の外臣となることを遼東太守に約し、一方で周辺の諸国を制圧して勢力を拡大していった[9][7]。外臣となった衛氏は形式としては漢皇帝の臣下であり、外敵が漢に侵入するのを防ぎ、また漢へ入朝することを望む国があればそれを妨げてはならないことになっていた[10]。しかし衛満が地位を確立するとすぐに周辺国を圧迫したことは漢側で問題となり、朝鮮征討が議論されるようになった[10]。文帝の時代には漢が実際に軍事行動に出ることはなかったが、前141年に武帝が即位し政権を握ると漢は対外積極策に転じ、朝鮮国に対しても強い姿勢を取るようになった[11][12]。衛満の孫、衛右渠の代になると、漢の武帝は使者を派遣し衛右渠が周辺の国が漢に入朝することを妨げ、漢からの入朝を促されても応じないことを責めた[10]。しかし、漢と朝鮮の交渉は失敗に終わり、漢の使者は案内役を務めた朝鮮の裨王の長を殺害して戻った。その後この使者が遼東の東部都尉に任命されると、衛右渠はこれを恨んで軍を派遣し彼を殺害したという[10][13]。
武帝は翌前109年に左将軍荀?、楼船将軍楊僕ら命じて50,000人と称する兵を水陸から朝鮮へと差し向けた(漢の衛氏朝鮮遠征)。衛右渠は遼東から侵入した漢軍を撃退し、斉から渤海を渡って王険城を攻撃した漢軍7.000も一時山中に追い散らすなど激しく抵抗した[13]。しかし、朝鮮の臣下から脱落して漢に降るものが相次ぐようになり、翌年には衛右渠は大臣の尼谿相参の家臣によって殺害された[13]。大臣の成巳はなおも王険城を堅守して漢軍に対抗したが、漢は最終的にすでに降伏していた右渠の子の衛長降と路人の子の最を差し向け、成巳を殺して降伏させた[13]。朝鮮史研究者の武田幸男は、前漢が朝鮮に遠征したのは匈奴を牽制するためとしており、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左臂を断った」と評している[5]。