衛星国
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しかし戦後も帰還は叶わず、ソ連によって建てられたルブリン政権を元にポーランド人民共和国となり、衛星国化された[5]。ソ連は、ポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた[6]。人民共和国の首相には、ポーランド労働者党(Polska Partia Robotnicza)党首でソ連のNKVDエージェントであるボレスワフ・ビェルトが就任し、スターリン主義的な恐怖政治が敷かれた。

ポーランド政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続き、1956年、1970年1980年と暴力的なストライキや暴動が各地で勃発、軍が出動、暴力的に暴動鎮圧し終わった。

1989年、ポーランド統一労働者党政権と連帯や他の民主化勢力との円卓会議が行なわれた。両者間で自由選挙の実施をすることで合意がなされた。
ブルガリア人民共和国詳細は「ブルガリア人民共和国」を参照

ブルガリアは歴史的にロシアとの親和性が強く、その独立にも深く関わっていたため、第二次世界大戦におけるソ連軍(赤軍)の侵攻もドイツからの解放と受け止める雰囲気が強かった。そのため、比較的素直にソ連による支配を受け入れ、「ソビエト連邦の第16番目の加盟共和国」とも揶揄されるほどの関係を築いた(同様の比喩はモンゴルに対しても見られる)。実際にブルガリアの指導者トドル・ジフコフはブルガリアのソ連加盟を打診したことすらあるが、後進地域であるブルガリアを領有することによる経済的負担を忌避したソ連政府により拒絶された。この緊密な状態は両国の指導者が交代しても続き、1989年の民主化運動で共産党政権が退場するまで変わらなかった。
ユーゴスラビア連邦人民共和国詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照

ユーゴスラビアは東欧で唯一ナチスからの自力解放に成功し、そのパルチザンの指導者だったヨシップ・ブロズ・チトーが独自の社会主義路線の建設を行った。又マーシャル・プランも積極的に受け入れた。これはソ連との反目を引き起こし1960年代までユーゴスラビアとソ連は断続的に国交断絶と回復を繰り返した。

その後もユーゴスラビアは「東側」と言う枠の中には入りきらずに、西側陣営にも東側陣営にも属さない非同盟運動を巧みにリードして、米ソにその存在感を見せつけた。その結果、ソ連で脱スターリン化が意識され西側との平和共存路線が主張された1960年代以降は、ユーゴスラビアとの関係が比較的安定した。

このような経緯から、ユーゴスラビアは広く「衛星国」としては扱われない場合が多い。
ルーマニア人民共和国詳細は「ルーマニア社会主義共和国」を参照

ルーマニアは第二次世界大戦で枢軸国に付いたが、ソ連軍の侵攻・全土占領により従来の立憲王国は崩壊し、ルーマニア共産党による独裁支配が完成した。他の東欧諸国と同様にソ連に対して忠実で、典型的な衛星国の一つであった。

しかし、1965年ニコラエ・チャウシェスク政権が登場すると、豊富な石油生産を背景にした経済建設に成功した事でソ連から一定の距離をおき、当時ソ連と対立していた中国へと接近し、ソ連との断交と復縁を繰り返した。またソ連共産党との確執のあった日本共産党にも接近した。

ルーマニアもチャウシェスク政権以降は「衛星国」として扱わない場合が多い。
アルバニア人民共和国詳細は「アルバニア社会主義人民共和国」を参照

アルバニアでは第二次世界大戦中にパルチザン闘争が盛んで、イタリアやドイツと戦った。戦後はエンヴェル・ホッジャによる独裁体制が成立したが、常に隣国のユーゴスラビアの存在を意識し、その指導者のチトーが独自の社会主義建設を主張した事で一層ソ連への依存度を高めた。

しかし、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うとホッジャはソ連を「修正主義」と非難し、国交を断絶した。同時に国内での強権支配を一層強化した。1962年にはコメコン、1968年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連の衛星国からは完全に脱却した。

その後は中ソ対立を通じてイデオロギーが共通した中華人民共和国へと接近し、1965年からの文化大革命も「熱烈に支持」して、中国からの援助を受けた。またヨーロッパの周辺国とは事実上の鎖国状態となっていた。国交断絶後のソ連との関係はさらに悪化し、ソ連を仮想敵国と見なして国内の兵力増強に努めていた。1979年には、ケ小平による急速な改革路線に転じた中国とも断交し、孤立無援な「バルカンの孤児」と呼ばれる状態が1985年のホッジャ死後も東欧革命まで続いた。
東欧の衛星国を引き留める装置

ソ連が衛星国に対して求心力を強めるために

経済的な分野では経済相互援助会議(コメコン)

安全保障の分野ではワルシャワ条約機構

があった。

ただし西側の「マーシャル・プラン」と比較しても「コメコン」が機能したとはとても言えず、またワルシャワ条約機構は対外的な安全保障の枠組みというよりも、チェコ事件等に見られるように、衛星国から抜け出そうとする身内の加盟国に対しての暴力装置としての面が強かった。

この他にも、ソ連は東欧の中で数少ない産油国であったため、エネルギー分野でもこれらの国の運命を握っていた。ただし同じく産油国であったルーマニアはこの限りではなく早々と衛星国の枠組みから抜けてしまった。
衛星国の解消

1985年ミハイル・ゴルバチョフが登場すると、これら「東欧」諸国に対するソ連の指導性を否定した(いわゆるブレジネフ・ドクトリン=制限主権論の放棄)。これにより各国は独自路線に走ることを許され、ポーランドやハンガリーなど国内の改革を試みる動きも出てきた(ポーランド民主化運動ハンガリー民主化運動を参照)。最終的にはベルリンの壁が崩壊し東欧およびモンゴル等の諸国の共産主義政権が総倒れになることによって「衛星国」の枠組みは解消された(東欧革命モンゴル民主化運動を参照)。
現在

ソビエト連邦の崩壊後ソ連を引き継いだロシア連邦は、旧ソ連各国への影響力を残すことを狙っており、実際に影響力の強いベラルーシカザフスタンや、ジョージアの独立勢力でロシアが支援するアブハジア南オセチアなどの国々を、ソ連時代に倣って「衛星国」と呼ぶことがある。
脚注^ 倉田稔「オーストリア・ハプスブルク帝国の非啓蒙的絶対主義の経済政策 : 皇帝フランツ2世と皇帝フェルディナントの時代の経済と社会」『商学討究』第50巻第1号、小樽商科大学、1999年7月、1-23頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 04748638、NAID 110000231916。 
^ 外務省政務局「世界情勢ノ動向/第2巻第18報?第51報」(アジア歴史資料センター、ref.B02130491300)
^ 宮前奈央美. “モンゴルにおける社会体制移行と教育政策の課題”. 九州大学. p. 89. 2023年12月28日閲覧。


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