衛星国
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以後、ソ連の衛星国としておよそ70年間に及び社会主義体制を貫いた[3]
東欧の衛星国第二次世界大戦後共産主義化によるソ連の衛星国となった東欧諸国。図の赤い部分が該当する。

第二次世界大戦末期においてイギリス首相ウィンストン・チャーチルとソ連の指導者ヨシフ・スターリンの間で会談があり、ヨーロッパにおける西側東側の勢力範囲が決定され、上記8カ国はソ連の勢力圏と決められた。

ただしこれらの国々を一概に「衛星国」とは言えない向きもあり個々の事例については以下に記す。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)詳細は「ドイツ民主共和国」を参照

東ドイツ(ドイツ民主共和国)は戦後ソ連の占領を受けたが、ベルリンの壁が構築されるまで、断続的に反ソ的な暴動が頻発していた。ソ連の影響下において安定するのはエーリッヒ・ホーネッカーが登場するのを待つことになる。東ドイツは常に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)との関係が問題となり、東西ドイツ基本条約で西ドイツに東ドイツの存在を認めさせた(ハルシュタイン原則を放棄させた)のは1972年の事であった。また、ドイツは東西冷戦の最前線であり、東ドイツには大量のソ連軍が、西ドイツにはアメリカ軍などの北大西洋条約機構(NATO)軍が駐留していた。

そのため、東ドイツのドイツ社会主義統一党政権は、国家存続のためにソ連に対して常に忠実である必要が生じた。このため、1974年に改正された東ドイツ憲法第6条第2項では「ドイツ民主共和国はソビエト社会主義共和国連邦との恒久的で取り消しえない同盟関係にある。」と規定されていた[4]。すなわち、東ドイツは東欧革命の発生までソ連の衛星国であり続けた。
チェコスロバキア社会主義共和国詳細は「チェコスロバキア社会主義共和国」を参照

チェコスロバキアは第二次世界大戦前に議会制民主主義が機能していた国で、共産党も有力な議会内勢力の一つとして活動していた。戦後もしばらくの間、自由選挙によって選ばれた非共産党政権が政権を運営していた。当初はマーシャル・プランの受け入れを模索していたが、これはソ連の圧力によって撤回された。1948年に閣内不一致で非共産党系の閣僚が辞任したのに乗じて共産党が実権を掌握し、直後の総選挙で圧勝。「人民民主主義」宣言を行ってソ連の衛星国の一つとなった。スターリン主義的手法で国内の社会主義化を進め、1960年に新憲法を採択して正式に社会主義共和国となった。

1968年に共産党による改革運動の「プラハの春」が起こると、ソ連を初めとするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、この動きを圧殺した。その後は共産党の保守派が政権を維持し、ソ連の衛星国として存在し続けた。これは1989年ビロード革命で共産党政権が崩壊するまで変わらなかった。
ハンガリー人民共和国詳細は「ハンガリー人民共和国」を参照

第二次世界大戦ではハンガリーは枢軸国側で参戦したが、ソ連に全土を占領されて敗戦した。以降、ソ連の影響下に置かれることとなる。1956年に反ソ暴動となるハンガリー動乱が勃発した。この動きもソ連及びワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。体制は元に戻されたが、チェコスロバキアのグスタフ・フサークらと違って最高指導者のカーダール・ヤーノシュは比較的穏健な政治姿勢を取り、経済は比較的自由であった。1968年頃から西側の経済を緩やかにではあるが取り入れ、ソ連政府の単なる傀儡ではなかった。1980年代には、国民はハンガリー社会主義労働者党の保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受けるような形で改革派が実権を握り、ハンガリーは独自に民主化西欧への帰還)への道を歩んでいったのである。
ポーランド人民共和国詳細は「ポーランド人民共和国」を参照

ポーランドは戦前ポーランド第二共和国として独立を遂げていたが、ドイツ・ソ連の双方によって侵攻され、ロンドン亡命政府が作られた。しかし戦後も帰還は叶わず、ソ連によって建てられたルブリン政権を元にポーランド人民共和国となり、衛星国化された[5]。ソ連は、ポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた[6]。人民共和国の首相には、ポーランド労働者党(Polska Partia Robotnicza)党首でソ連のNKVDエージェントであるボレスワフ・ビェルトが就任し、スターリン主義的な恐怖政治が敷かれた。

ポーランド政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続き、1956年、1970年1980年と暴力的なストライキや暴動が各地で勃発、軍が出動、暴力的に暴動鎮圧し終わった。

1989年、ポーランド統一労働者党政権と連帯や他の民主化勢力との円卓会議が行なわれた。両者間で自由選挙の実施をすることで合意がなされた。
ブルガリア人民共和国詳細は「ブルガリア人民共和国」を参照

ブルガリアは歴史的にロシアとの親和性が強く、その独立にも深く関わっていたため、第二次世界大戦におけるソ連軍(赤軍)の侵攻もドイツからの解放と受け止める雰囲気が強かった。そのため、比較的素直にソ連による支配を受け入れ、「ソビエト連邦の第16番目の加盟共和国」とも揶揄されるほどの関係を築いた(同様の比喩はモンゴルに対しても見られる)。実際にブルガリアの指導者トドル・ジフコフはブルガリアのソ連加盟を打診したことすらあるが、後進地域であるブルガリアを領有することによる経済的負担を忌避したソ連政府により拒絶された。この緊密な状態は両国の指導者が交代しても続き、1989年の民主化運動で共産党政権が退場するまで変わらなかった。
ユーゴスラビア連邦人民共和国詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照

ユーゴスラビアは東欧で唯一ナチスからの自力解放に成功し、そのパルチザンの指導者だったヨシップ・ブロズ・チトーが独自の社会主義路線の建設を行った。又マーシャル・プランも積極的に受け入れた。これはソ連との反目を引き起こし1960年代までユーゴスラビアとソ連は断続的に国交断絶と回復を繰り返した。

その後もユーゴスラビアは「東側」と言う枠の中には入りきらずに、西側陣営にも東側陣営にも属さない非同盟運動を巧みにリードして、米ソにその存在感を見せつけた。その結果、ソ連で脱スターリン化が意識され西側との平和共存路線が主張された1960年代以降は、ユーゴスラビアとの関係が比較的安定した。

このような経緯から、ユーゴスラビアは広く「衛星国」としては扱われない場合が多い。
ルーマニア人民共和国詳細は「ルーマニア社会主義共和国」を参照

ルーマニアは第二次世界大戦で枢軸国に付いたが、ソ連軍の侵攻・全土占領により従来の立憲王国は崩壊し、ルーマニア共産党による独裁支配が完成した。他の東欧諸国と同様にソ連に対して忠実で、典型的な衛星国の一つであった。


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