ただし西側の「マーシャル・プラン」と比較しても「コメコン」が機能したとはとても言えず、またワルシャワ条約機構は対外的な安全保障の枠組みというよりも、チェコ事件等に見られるように、衛星国から抜け出そうとする身内の加盟国に対しての暴力装置としての面が強かった。
この他にも、ソ連は東欧の中で数少ない産油国であったため、エネルギー分野でもこれらの国の運命を握っていた。ただし同じく産油国であったルーマニアはこの限りではなく早々と衛星国の枠組みから抜けてしまった。 1985年にミハイル・ゴルバチョフが登場すると、これら「東欧」諸国に対するソ連の指導性を否定した(いわゆるブレジネフ・ドクトリン=制限主権論の放棄)。これにより各国は独自路線に走ることを許され、ポーランドやハンガリーなど国内の改革を試みる動きも出てきた(ポーランド民主化運動、ハンガリー民主化運動を参照)。最終的にはベルリンの壁が崩壊し東欧およびモンゴル等の諸国の共産主義政権が総倒れになることによって「衛星国」の枠組みは解消された(東欧革命、モンゴル民主化運動を参照)。 ソビエト連邦の崩壊後ソ連を引き継いだロシア連邦は、旧ソ連各国への影響力を残すことを狙っており、実際に影響力の強いベラルーシ、カザフスタンや、ジョージアの独立勢力でロシアが支援するアブハジア、南オセチアなどの国々を、ソ連時代に倣って「衛星国」と呼ぶことがある。
衛星国の解消
現在
脚注^ 倉田稔「オーストリア・ハプスブルク帝国の非啓蒙的絶対主義の経済政策 : 皇帝フランツ2世と皇帝フェルディナントの時代の経済と社会
^ 外務省政務局「世界情勢ノ動向/第2巻第18報?第51報」(アジア歴史資料センター、ref.B02130491300)
^ 宮前奈央美. “モンゴルにおける社会体制移行と教育政策の課題”. 九州大学. p. 89. 2023年12月28日閲覧。 “モンゴルは、1924年にソビエト連邦に続く世界で第二番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」として建国され、ソ連の忠実な「衛星国」としておよそ70年間に及び社会主義体制を貫いてきた。”
^ 『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)
^ ^ Wojciech Roszkowski, Najnowsza historia Polski 1914-1945. Warszawa: ?wiat Ksi??ki, 2003, p. 236-240, 678-680, 700-701. ISBN 83-7311-991-4.
^ Rao, B. V. (2006), History of Modern Europe Ad 1789-2002: A.D. 1789-2002, Sterling Publishers Pvt. Ltd
関連項目
傀儡政権
付庸国
保護国
植民地
従属国
冊封国
緩衝国
フィンランド化
東側諸国
モンキーモデル
十字軍国家
アメリカ合衆国51番目の州
外部リンク
尾上正男「東欧衛星国の成立過程:ソ連外交政策の分析」『国際政治』第1960巻第12号、日本国際政治学会、1960年、40-52頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.12_40、ISSN 0454-2215、NAID 130004301881。
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