行田市
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行田市大字埼玉(さきたま)は、古くは『万葉集』に「さきたまの津」という記述があり、『風土記』にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」とあるように、「埼玉県」地名の発祥地である。

古墳時代には稲荷山古墳などが造成され、これらからは金文字の入った金錯銘鉄剣など貴重な文化財が出土している。

室町時代には忍城(おしじょう)が築かれ、成田氏を中心とする武士団の本拠地として周辺に勢力を拡大していた。

戦国時代には後北条氏と結んだため、豊臣秀吉小田原征伐の際には石田三成に攻撃を受けることとなる(忍城の戦い)。

江戸時代には忍藩領となり、阿部氏、後に松平氏城下町。石高は十万石。江戸時代中期より、下級武士の内職として足袋の生産が始まり、明治時代を迎えて機械化されたことで一大産地(行田足袋)となった。最盛期の1938年には約8500万足の足袋を生産し、全国シェアの約8割を占めた。

第二次世界大戦後の日本では洋装化が進み、ナイロン靴下が普及したため、行田の足袋産業は衰退した。2020年(令和2年)現在でも足袋の生産は行われており、足袋から転じた繊維産業が地場産業として一定の地位を占めている。また、かつて足袋を保管していた足袋蔵を博物館や飲食店に転用して、観光資源として活用している[1]
近代以後

1869年明治2年)1月28日 (旧暦) - 武蔵知県事・宮原忠治の管轄区域をもって大宮県が発足(県庁は日本橋馬喰町)。ほか旧市域では忍県前橋県に属した村もあり。

1869年(明治2年)9月29日 (旧暦) - 県庁が浦和に移転し、大宮県から浦和県に改称。

1871年(明治4年)11月14日 (旧暦) - 浦和県・忍県・岩槻県の3県が合併し、埼玉県が成立。

1874年(明治7年)- 小沼河岸(見沼通船会社の第1会社)が設立され、行田下町(忍川埼玉県道128号熊谷羽生線と交差する付近)から見沼代用水隅田川を経由して東京・神田日本橋まで結ばれ、荷物や乗客が河川舟運で運ばれるようになる[注釈 2]

1889年(明治22年)4月1日 - 北埼玉郡成田町・行田町・佐間村が合併し、忍町(おしまち)となる。

1902年(明治35年)6月 - 行田馬車鉄道が創業。

1910年(明治43年)9月 - 行田電灯が設立。

1921年大正10年) - 北武鉄道秩父鉄道の前身)が羽生 - 行田(現在の行田市)間を開業(市域内では武州荒木駅、行田市駅が開業)。

1925年(大正14年)11月15日 - 持田駅が開業。

1932年昭和7年)11月20日 - 東行田駅が開業。

1937年(昭和12年)4月1日 - 北埼玉郡長野村星河村持田村が忍町に編入合併

1949年(昭和24年)4月23日 - 市章を制定する[2]

1949年(昭和24年)5月3日 - 忍市として市制施行[3]、即時改称し行田市となる[4][5]

1954年(昭和29年)

3月31日 - 北埼玉郡荒木村須加村北河原村が行田市に編入合併。

7月1日 - 北埼玉郡埼玉村が行田市に編入合併。


1955年(昭和30年)

7月20日 - 北埼玉郡星宮村が行田市に編入合併。

9月30日 - 北埼玉郡太井村のうち、旧棚田村・門井村の区域が行田市に編入合併。

10月1日 - 池上・下川上が行田市から分離し、熊谷市に編入合併。


1956年(昭和31年)4月1日 - 北足立郡吹上町から堤根・樋上および下忍の一部が分離し、行田市に編入される。

1957年(昭和32年)3月31日 - 北埼玉郡太田村が行田市に編入合併。

1966年(昭和41年)7月1日 - 高崎線行田駅(当時は国鉄)が開業。


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