行幸
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また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子監国を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、皇親議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた[9]
平成期以降の行幸啓

現在(平成以降)の行幸は、天皇皇后の二人で行う「行幸啓」が原則である。国内の行幸は金曜日から月曜日、土曜日から火曜日の三泊四日で一つの道府県へ行幸啓するように計画される。行幸啓においては宮内庁の総務課長が「行幸主務官」として責任者となる。そのため総務課長は警察庁からの出向者が務める。行幸啓に使用する交通機関は航空機は民間の航空会社の特別機、新幹線も特別車となる。見送りには首相、宮内庁次長、警視総監が出席する[10]。1994年2月の小笠原行幸啓では、現地に飛行場がなく、船舶では時間がかかるため、海上自衛隊US-1A飛行艇が使用された[11]
供奉者

行幸には以下の者が随行する。これらを「供奉者(ぐぶしゃ)」という。

宮内庁長官

侍従長、侍従

女官長、女官

侍医

宮内庁総務課長、宮内庁職員

警察庁長官警察庁職員

皇宮警察本部長、皇宮警察職員

訪問先では訪問地の知事と首長が供奉者に加わる。
車両編成

行幸啓先での天皇、皇后の鹵簿は以下のような編成となる。
通常編成
先導車
白バイ護衛2台
前駆車(黒塗りの自動車)
行幸主務官と警官2人
御料車
天皇、皇后と護衛官
側衛車
白バイの護衛2台
後衛車
訪問先の警察本部長、護衛官(責任者)、護衛官
供奉車(マイクロバス)
宮内庁長官侍従長、侍従、女官長、女官、侍医、宮内庁職員2人、訪問先の道府県庁職員、護衛官3人
第1随従車
知事、道府県議会議長、道府県庁秘書課長
第2随従兼無線車
警察庁長官、皇宮警察本部長、警察庁職員2人、護衛官、警察官2人
後押さえ車
白バイ2台
報道1号車(バス)
宮内庁記者会、道府県広報課職員、宮内庁職員
報道2号車(バス)
地元記者クラブ、記者、道府県広報課職員
予備車両
道府県庁職員2人
予備
白バイ2台
災害被災地

災害被災地の行幸啓では、前駆車、御料車(マイクロバス)、後衛車の3台のみとなり、御料車になるマイクロバスに供奉者も同乗する。白バイの護衛はなく、地元の知事や警察本部長は災害救援優先のために随従しない。
行幸を題材にした和歌

このたびは幣もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに(
菅原道真

小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびの御幸またなむ(藤原忠平

行幸にちなむ名称

御幸道路三重県道37号鳥羽松阪線等の通称で、伊勢神宮への参道。明治天皇の行幸から。

行幸道路:東京都道・神奈川県道51号町田厚木線の通称。昭和天皇の行幸から。

行幸通り:東京都道404号皇居前東京停車場線の通称。行幸の際に使う、皇居東京駅を継ぐ道路。

みゆき通り兵庫県姫路市。明治天皇の行幸から。

行啓通:北海道札幌市中央区にある南14条通のうち中島公園 - 国道230号にかけて。皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の行幸に由来。行啓通と札幌市電が交わる地点に「行啓通停留場」がある。

行幸村(現・埼玉県幸手市行幸地区):1875年明治8年)に権現堂川築堤の改修後に明治天皇の行幸があったことを記念して、1889年(明治22年)、町村制施行により、千塚村、円藤内村、松石村、高須賀村、外国府間村が合併して発足。

御幸村(現・熊本市御幸):明治天皇の行幸から「部田村」から1903年に改称

御幸公園:川崎市幸区。明治天皇の行幸から。「幸区」の名もこれにちなむ。

御幸台:千葉県船橋市薬円台。「習志野」の名もこれにちなむ。

御幸ノ浜:神奈川県小田原市。明治6年(西暦1873年)、明治天皇と昭憲皇太后が地引網を見学したことに由来する。広義では早川-山王川(南町、本町、浜町)にかけて。松原神社例大祭時には同地でお浜降りが行われ、夏季には「御幸の浜海水浴場」が開かれる。

御幸が丘茨城県つくば市

聖蹟桜ヶ丘駅東京都多摩市。「聖蹟」は「行幸の地」の意。明治天皇の行幸から。

旧多摩聖蹟記念館:東京都多摩市。


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