衆議院解散
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(65条説)日本国憲法第65条の「行政権」に解散権の実質的決定権を含むとみて内閣による裁量的解散も認める見解行政の定義を「国家の権能のうち、立法と司法を除いた残余の権能」とする考え方(控除説)を基に、衆議院解散権は立法でも司法でもないから行政に属し、日本国憲法第65条により内閣に帰属するとする控除説の前提とする国家作用は国民支配作用でありそもそも解散権は含まれていないはずである[15]

衆議院解散の実質的決定権の根拠について学説には以上のように争いがあるものの、少なくとも衆議院解散の形式的宣示権は憲法上天皇にある(日本国憲法第7条3号)[7]。日本国憲法第7条と日本国憲法第69条との関係であるが、先述のように憲法上は憲法第69条の内閣不信任決議案の可決(内閣信任決議の否決)の場合も含め、すべて衆議院解散は天皇の国事行為として詔書をもって行われ、この解散詔書の直接の法的根拠は日本国憲法第7条にあり[5][6]、日本国憲法第69条の条文の文言も「内閣は……衆議院を解散しない限り」とはなっておらず「内閣は……衆議院が解散されない限り」となっているが、このことは日本国憲法第7条において天皇の衆議院解散についての形式的・名目的権能について定めていることに対応している[8]。このようなことから、今日、すべて解散詔書の文言は「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」との表現が確立している[注 3]1993年(平成5年)6月18日嘘つき解散は内閣不信任案の可決による解散であったが、議長が慣例どおり「日本国憲法第七条により衆議院を解散する」との詔書を読み上げたため、野党席からは「69条の解散ではないのか」との抗議の怒声が起こり、万歳三唱がなかなか行われず、遅れて与党席から「万歳」の声があがるというハプニングもあった。しかし、衆議院解散は詔書をもって行われるが、この詔書の直接の根拠は日本国憲法第7条にあり、また、この文言は解散の理由を問わないため、一般的には、いかなる場合の衆議院解散についても適用しうるものと解されている[17][5]

なお、先述のように、憲法上は内閣不信任決議案可決(内閣信任決議案否決)の場合も含め、すべて衆議院解散は天皇の国事行為として詔書をもって行われ、この解散詔書の直接の法的根拠は日本国憲法第7条にあるが[5][6]、便宜的な意味合いで衆議院解散について7条解散と69条解散とに分類して説明されることがある。ただ、「7条解散」と「69条解散」という分類は解散原因を基準とするか詔書の文言を基準とするかによって一義的ではなく文献によって異なった分類の仕方がなされており、内閣不信任案が可決(信任決議案が否決)されて内閣が解散を選択した場合を69条解散としそれ以外の場合について7条解散として分類している文献[18](この分類をとると69条解散は現在までに4例ということになる)がある一方で、詔書の文言を基準として第2次吉田内閣における解散(後述の馴れ合い解散)が第69条と第7条に基づく解散で他の解散はすべて7条解散であると分類している文献[19]もある。
解散権を巡る歴史的経緯

戦後、明治憲法を連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)と協力して改正するにあたり、第1回目の会合は1945年10月、高木八尺松本重治牛場友彦が参加して「マッカーサー・近衛会談」として行われ、高木はこのとき駐日大使ジョージ・アチソンから示された12の指示項目の中に、「国会の解散権は、政府が政治的コントロールの手段として用いてはならないこと」を規定するよう指示があったことをメモしているが、これらは事実上は米国国務長官ジェームズ・F・バーンズの指示であった[20]。なお、国会の解散権は、国家総動員法案が野党から激しい批判を浴びていた時期にも利用されており、近衛がこれによって同法案を成立させたという経緯があった。

GHQ施政下にあった1948年(昭和23年)に衆議院を解散する際、当時の第2次吉田内閣は「69条所定の場合に限定されない」という見解を採っていたのに対し、野党は「69条所定の場合に限定される」という見解を採り、対立していた。そのような中で、憲法草案の策定に携わっていたGHQは衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採ることが伝えられ、協議の上、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、69条所定の事由により解散する方法を採った(馴れ合い解散)。この時の解散詔書には「衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載されたが、この文は内閣の事務当局がGHQの意向を察して作成したものといわれる[12]

1951年(昭和26年)頃になると学界では解散権をめぐる論争が活発化したが、この頃、既に政界では野党側が早期解散へと主張を転換しており憲法第69条に解散を限定する見方は大きく後退していた[12][21]

実際、1952年(昭和27年)に第2回の解散をしたときは第69条所定の場合ではなかった。この解散で衆議院議員の地位を失った苫米地義三は解散の無効を主張し、歳費請求訴訟を提起したが、その上告審において最高裁判所は、いわゆる統治行為論を採用し、高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるとして、違憲審査をせずに上告を棄却した(苫米地事件。裁判長は長官田中耕太郎)。この第2回解散の際の詔書には「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」とあり、以後は、内閣不信任決議案が可決された場合であるか否かにかかわらず、この方式によることが確立するに至った。

このように、解散を第69条所定の場合に限定する見解は、実務上は現在では見られない。もっとも、内閣に自由な解散権があるとしても、総選挙を通して民意を問う制度である以上、それに相応しい理由がなければならないと理解されており、国会法第74条に基づく内閣に対する質問に対し、内閣から国会に提出された答弁書では、新たに民意を問うことの要否を考慮して、内閣がその政治的責任において決すべきものとの認識が示されている。

保利茂が衆議院議長在職中時代に衆議院法制局の意見を参考に「解散権について」という「(現行憲法下における解散は)内閣に解散権があるといっても、明治憲法下のように内閣の都合や判断で一方的に衆議院を解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解していないもので適当ではない」として解散権の濫用を戒めている[22]

憲法学者の佐藤功は保利見解について次の四つの場合を限定的に列挙して七条解散はこれらに限られるべきとする[22]
第69条にいう不信任決議可決又は信任決議否決という形ではなくても、予算案や内閣の重要条件が否決されたり審議未了となったりして、実質的に不信任決議可決等と同一視してもよい場合。

長期の審議ストップ等で、国会の機能が麻痺した場合。

党利党略で不信任決議案などが提出されないままで、国会・国政が渋滞を続けた場合。

前回の総選挙の時に争点とはなっていなかった重大案件が提起され、あらためて国民の判断を求めるのが当然とされる場合。

解散権の行使

内閣の衆議院解散決定権は閣議決定に基づいて行使される。

政府見解によれば、国会閉会中でも衆議院の解散は可能とされているが、衆議院の意思が国民の意思と合致しているかを問うという衆議院解散の制度からみて国会開会中の解散が原則とされ、現憲法下において閉会中に衆議院解散となった例はない[17][23]

また、政府見解によれば、任期満了当日まで衆議院の解散は可能である[24]。このことにより、任期満了より最大40日間、投票日を先延ばしできることになる。さらに、任期満了の総選挙が公示されても、投票前日までは解散が可能となっている[25]。この場合、任期満了選挙の公示は無効となり、改めて解散総選挙が公示されることになる。
閣議決定

衆議院解散を決定する権限は内閣に属する。したがって、内閣総理大臣閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、全ての国務大臣署名を集めなければならない。しかし、日本国憲法第68条第2項は「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」と定めており、内閣総理大臣は「任意に」つまり時期や理由を問わず法的には何らの制約なく自由な裁量によって国務大臣を罷免することができる[26][27]

したがって、衆議院解散を行うための閣議書への署名を国務大臣が拒否する場合、内閣総理大臣は当該大臣を罷免して自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議決定を行うことができる。先例としては2005年(平成17年)の『郵政解散』の際に小泉純一郎内閣総理大臣が、署名を拒否した島村宜伸農林水産大臣を罷免したのが唯一の例である[28]


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