この項目では、1991年にリトアニアで発生した血の日曜日事件について説明しています。その他の用法については「血の日曜日事件」をご覧ください。
Sausio ?vykiai
リトアニアの国旗を手に、ソ連軍の戦車の前に立ちはだかるリトアニア市民(1991年1月13日)
時1991年1月11日 - 1991年1月13日
場所リトアニア
発端リトアニア国家独立回復法
ソビエト連邦
ソ連軍
第76親衛空挺師団[1]
ソ連国家保安委員会
アルファ部隊[1]
リトアニア・ソ連邦救国委員会
指揮官
ヴィータウタス・ランズベルギス
アルベルタス・シメナス(リトアニア語版)
ゲディミナス・ヴァグノリュス
アウドリュス・ブトケヴィチュス(リトアニア語版)ミハイル・ゴルバチョフ
ヴラジスラフ・アチャロフ(ロシア語版)
ユオザス・イェルマラヴィチュス(ロシア語版)
ミーコラス・ブロケヴィチュス(ロシア語版)
被害者数
リトアニア人14名が殺されたКГБアルファ部隊の隊員1名(友軍からの被弾)
一月事件(いちがつじけん、Sausio ?vykiai)とは、1991年1月、リトアニアにおいて発生した、国家の独立を支持するリトアニア国民と、それを防ぐために進軍してきたソ連軍との暴力的な衝突事件である。1991年1月13日、リトアニアのヴィリニュスにソ連が軍事侵攻し[2][3]、少なくとも14人がソ連軍に殺され[4][5][6]、700人が重傷を負い、3000人が軽傷を負った[7]。
1990年3月11日、リトアニア共和国最高会議はリトアニア国家独立回復法(英語版)を採択し、リトアニア国家の独立の回復を宣言した。ソ連はリトアニアの決定に対し、軍事力による威嚇と誇示を続けた[4]。1991年1月10日、ソ連共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフはリトアニア共和国最高会議に最後通牒の書簡を送り、1990年3月11日以前の状態に戻すよう要求したが、リトアニア共和国最高会議はゴルバチョフの要求を拒否した[4]。ゴルバチョフは、リトアニアの独立に反対していた[8]。