蝶々夫人
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「蝶々夫人」の先行作品として、フランスの作家ピエール・ロティの小説「マダム・クリザンテーム(お菊さん)」と、この小説に基づくアンドレ・メサジェ作曲の歌劇「お菊さん」の存在は広く知られていた。メサジェの弟子で作曲家のアンリ・フェブリエ(1875-1957)が、1947年にJEUNESSE DE LA MUSIQUE[1]誌に寄稿した、メサジェの思い出「私の師、私の友人」という文章によれば、1892年夏メサジェとプッチーニはリコルディ出版社社長ジュリオ・リコルディの招待で、イタリアのコモ湖畔のヴィラ・デステに共に滞在して、メサジェは「お菊さん」を、プッチーニは「マノン・レスコー」を作曲した。そしてお互いのスコアを弾き合い研究した。つまりプッチーニは「お菊さん」の作曲の場にいた。またプッチーニはロティの小説「マダム・クリザンテーム」も読んでいた。この結果、それから10年後にプッチーニが蝶々夫人を作曲した際、メサジェの「お菊さん」をヒントにしたと思われる。顕著な類似点として、蝶々夫人第2幕冒頭のスズキの祈りの場面と、お菊さん第2幕冒頭のお梅の祈りの場面、また花の二重唱の後半と、お菊さんとお雪の二重唱ははっきりと類似点が認められる。それ以外にも、ゴローと勘五郎の扱いや結婚式の場面、さらに日本のメロディーの扱いなど、多数の類似点が認められる[2]
蝶々夫人との出会い

プッチーニは24歳で最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びた。その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出した。彼が「蝶々夫人」を書くのは、音楽家として、正に脂の乗り切った時期であった。

トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれた。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇した。英語で上演されていたため、詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。
制作の開始

同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始された。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手した。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。当時のイタリア駐在特命全権公使[3]であった大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。またプッチーニはヨーロッパの劇評で絶賛されていた日本人女優川上貞奴に接することを熱望した。1902年4月ミラノで観劇が叶い、貞奴の芝居に感銘を受けた。[4]オペラ歌手の小嶋健二がイタリアの指揮者セルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人から聞いた話では、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人をなぜ作ったか聞いたところ「日本女性を愛してみればよくわかる」と答えたという[5]
自動車事故と結婚

1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負った。春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされた。しかしプッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日に脱稿した。その年の内に楽譜は小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版された。原作者ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで序文に「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記している。また翌1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に結婚の儀式を行っている。
初演の失敗と後世の評価初演で蝶々夫人を演じたロジーナ・ストルキオ。拍手ひとつなく、舞台裏で泣き崩れた[6]。プッチーニは同作の成功を誓い、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じた[6]ブレシア大劇場で好評を得たウクライナ出身のソロミヤ・クルシェリンスカヤ1907年にベルリン国立劇場公演で大成功をおさめたジェラルディン・ファーラーはニューヨークのメトロポリタン劇場だけでも100回近く蝶々夫人を演じた

現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっている「蝶々夫人」であるが、1904年2月17日ミラノスカラ座での初演はプッチーニの熱意にもかかわらず振るわなかった(彼の作品は本作に限らず、初演で不評を買うのが常であった[7])。失敗の理由はいくつか指摘される。初演版では、第2幕に1時間半を要すなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられている。

ひどく落胆したプッチーニだったが、すぐさま改稿に取りかかった。改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ、大成功を収めた。その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっている。

本作は抒情的なテーマを盛り上げる美しいメロディや複雑な和声効果の使用などプッチーニの音楽の特色が現れた作品であり、イタリアオペラを代表する演目の一つとなっている。


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