これに対し蝦夷辺民説では、上記の西南日本から北上して来て接触・交流を行なった古墳文化の担い手(和人)が東北地方に住み蝦夷(えみし)となったと考える。遺伝子特徴の研究では、蝦夷は、アイヌよりも和人(特に出雲地方の古代人)に近いとの研究もある。また日本語の「ズーズー弁」(現在の東北方言の始祖)を話す和人とする説もある[51] 。特に東北方言と出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷となったとする見方もある[52]。最近の研究、例えばBoerらの2020年の研究では、蝦夷は主に出雲方言に密接に関連した日本語を話していたと結論付けている。さらに、蝦夷による稲作の証拠と馬の使用は、古代の出雲日本人と蝦夷との間の結びつきを強化している。この理論によれば、蝦夷は大和日本人から追い出された出雲日本人であり、彼らは天皇の統治に対して同調することを受け入れなかった[53]。 出雲弁とツングース諸語の類似[54] などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。アムール地域の騎馬遊牧民、特にツングース諸族 中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である[注 4]。鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある[51]。 アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる[58])と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。 鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党」[注 5]、「日の本」[注 6]、「唐子」[注 7]に分かれ、「日の本」と「唐子」は農耕をせず言葉も通じず、「渡党」は多毛だが姿は似ていて和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている[59]。また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。 室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。詳細は「アイヌ」を参照
ツングース説
えぞ
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[15]。
^ 工藤雅樹もこれを支持する[21]。
^ 下線部「「?」は田へんに「比」の一文字、「?」は「?」(にんべん)に「嚢」の一文字。
^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。
^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。
^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。
^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。
出典^ a b “「エミシ」と「エゾ」
^ 高橋 1974, p. 33.