蝦夷
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奈良時代

扶桑略記養老2年(718年)8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある[41]

光仁天皇以降、蝦夷征討政策が本格化した。蝦夷も組織的に朝廷軍と戦うようになっていった。

宝亀11年(780年)には多賀城を一時陥落させた宝亀の乱伊治呰麻呂延暦8年(789年)に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。

延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述[42] があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。
平安時代以降

延暦20年(801年)には征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し勝利した。延暦21年(802年)に胆沢城を築き、その周辺の蝦夷との戦いは記録に残っている中でも最大である。延暦22年(803年)には志波城を築城し、蝦夷征討の目的がほぼ達成されたと見なされた。

その後、朝廷は蝦夷に対する積極的な征服政策を転じ、民衆の負担を減らすことととし、朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。延暦24年(805年)、藤原緒嗣から蝦夷征討と平安京の造営の一時中止を奏上され、桓武天皇は蝦夷への遠征を中止した。また軍団を廃止し健児制へと移行したが、陸奥・出羽のみ蝦夷対策として軍団が維持された。

その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。

その後、前九年の役後三年の役などが勃発し、平安後期東北北部は戦乱の時代であったが、当事者のうち安倍氏清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方、源氏は蝦夷の系譜とは関係なく東北に乗り込んでいる。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。

藤原氏3代は中尊寺金色堂でミイラになっている。「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、長谷部言人はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、古畑種基はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしウフイ(ミイラ)を作る。森嘉兵衛は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている[43]

奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。
民族系統

東北地方の蝦夷(えみし)の民族系統については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から二種類の学説に分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を和人の一部とする蝦夷辺民説である。

日本列島の縄文人が朝鮮半島からの渡来人との混血が進み、北九州から始まり本州全域まで及んだ弥生文化を生んだのが、弥生人和人だが、縄文人縄文文化は、その後も日本列島に残った。弥生人和人との混血の度合いも、北海道を除く日本列島内では地理的に連続的だった。

弥生人弥生時代に東北地方北部へ達したが、古墳時代寒冷化に伴い南へ退き、そこへ、北海道道央道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手(のちのアイヌ民族)が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し[44]西南日本から北上して来た古墳文化の担い手(和人)と接触・交流を行なったことが、考古学的に明らかとなっている。なお、東北地方に到来した続縄文文化の担い手は、その後再び北海道へ退いたが、東北地方の和人との接触・交流自体は続いた。
蝦夷アイヌ説

蝦夷アイヌ説では、続縄文文化の担い手が東北地方に残り蝦夷(えみし)となったと考えられている。この理論は、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中していることから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である[45]。蝦夷と日本の他の民族群との正確な民族関係については多くの学説が存在するが、そのうちの一つは蝦夷がアイヌ民族と関連しているとするものである。しかし、この理論は議論の的となっている。なぜなら、多くの蝦夷の部族は優れた騎馬弓兵や戦士として知られている一方で、アイヌもまた弓兵として知られているものの、彼らは馬を使用せず、戦闘スタイルは明らかに異なっていたためである。また、文化的な面でも彼らは異なっていた[46]中央政府側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される[45]縄文人は歴史的変遷の中で蝦夷とアイヌの両方の祖先と考えられており、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の名前は同じ漢字で表される。すでに、'蝦夷'の名前が中世初期に津軽半島の人々を指すために使われ、北海道の縄文人が直接アイヌの祖先であったことが知られているため、この理論によれば、これは論理的な進行である。北本州の恵山文化はこの人々と関連しており、後に北海道の現代アイヌ民族を形成する上で重要な役割を果たした擦文文化に発展した。蝦夷は馬に乗り、鉄を扱う人々であった(アイヌとは異なり)。農業(キビと米)の証拠がある一方で、彼らは主に馬に乗り、狩り、漁業、交易を行っていた[47]。最近の研究では、アイヌ語を話す人々が地元の日本語を話す人々と連携してヤマト王権の拡大に抵抗したことを示唆している[48]マタギは、これらのアイヌ語話者の子孫であり、彼らは地元の日本語話者に地理や彼らが狩猟した森や水の動物に関連した地名と借用語を提供したとされている[48][49]。縄文文化の人々の骨格特徴の研究は、先住民族の間に非均質性を示し、複数の起源と多様な民族群を示唆している。2014年の人類学的・遺伝学的研究では、「この点で、縄文時代の人々の生物学的なアイデンティティは非均質であり、それは多様な人々が存在し、それらはおそらく共通の文化、縄文文化に所属していたことを示している」と結論付けている[50]
蝦夷辺民説

これに対し蝦夷辺民説では、上記の西南日本から北上して来て接触・交流を行なった古墳文化の担い手(和人)が東北地方に住み蝦夷(えみし)となったと考える。遺伝子特徴の研究では、蝦夷は、アイヌよりも和人(特に出雲地方の古代人)に近いとの研究もある。また日本語の「ズーズー弁」(現在の東北方言の始祖)を話す和人とする説もある[51] 。特に東北方言出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷となったとする見方もある[52]。最近の研究、例えばBoerらの2020年の研究では、蝦夷は主に出雲方言に密接に関連した日本語を話していたと結論付けている。さらに、蝦夷による稲作の証拠と馬の使用は、古代の出雲日本人と蝦夷との間の結びつきを強化している。この理論によれば、蝦夷は大和日本人から追い出された出雲日本人であり、彼らは天皇の統治に対して同調することを受け入れなかった[53]
ツングース説

出雲弁とツングース諸語の類似[54] などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイド騎馬民族とする説もある。アムール地域の騎馬遊牧民、特にツングース諸族と蝦夷との間に顕著な類似性を指摘している歴史学者もいる。


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