大宝律令施行時点で越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地は律令国家の支配体制に組み込まれ、それらよりも北方の諸地域が「エミシ」の地と定められることとなった[5]。 斉明天皇元年7月11日(655年8月18日)、難波宮で北(越国)の蝦夷99人、東(陸奥国)の蝦夷95人を饗応、百済の調使150人、柵養蝦夷9人、津刈蝦夷6人が冠位各二階を授けられた[原 4][7]。北蝦夷とは高志国、東蝦夷とは道奥国が連れてきた蝦夷集団をそれぞれ指す[8]。また柵養蝦夷とは渟足・磐舟柵や郡山遺跡などの城柵の下で保護されている蝦夷を指すと考えられる[8]。同年に蝦夷と隼人が衆を率いて内属し、天闕
大化以後の対蝦夷政策
『日本書紀』は斉明天皇4年(658年)4月から同6年(660年)3月にかけて、阿倍比羅夫の日本海沿いの遠征・北航の蝦夷および粛慎を討った記事も伝える[原 6][原 7][9][7]。7世紀後半は、文献はとくに蝦夷の反乱などは記録していない[10]。
大化改新後まもなく陸奥国は設置された[6]。文献上では斉明天皇5年(659年)3月に道奥国とみえるのが初見例である[4]。陸奥の初見は天武天皇5年1月25日(676年2月14日)である[4]。 天智天皇2年8月(663年10月)に起こった白村江の戦いでの大敗を契機としてヤマト王権は天皇中心の律令国家建設を急いだ。大宝元年(701年)に大宝律令が制定される[5]。 これ以後は「エミシ」に対する用字として「蝦夷」が一般的に定着している[5]。 律令国家が新たに経営を推進したのが大崎平野と庄内平野であった[11]。しかし越後平野や仙台平野の時と違い、律令国家の蝦夷経営はやがて大きな障碍にぶつかると、現地住民である蝦夷の抵抗に遭う[11]。 大宝律令の施行から10年も経たず、東北地方の日本海側では蝦夷による反乱が発生していたようである[12]。国宝『金銅威奈真人大村骨蔵器』[注 1]に刻まれた銘文によると、慶雲2年(705年)頃に越後守威奈大村が越後北疆 威奈大村の後任として阿倍真公が越後守に任ぜられると、和銅元年9月28日(708年11月14日)、越後国の庄内地方に出羽郡が新設された[12]。このことが現地の蝦夷系住人に困惑や抵抗の感情をもたらしたようで、中央政府は和銅2年3月6日(709年4月20日)に陸奥国と越後国の蝦夷が出羽柵の柵戸ら非蝦夷系の住人に危害を加える事件がたびたび発生していたことを理由に、陸奥鎮東将軍・巨勢麻呂や征越後蝦夷将軍・佐伯石湯などを派遣した[原 8][10][12]。両最高指揮官の肩書きが陸奥国側では「陸奥鎮東将軍」、越後国側では「征越後蝦夷将軍」と書き分けられ、越後国側には副将軍がともなっていることから、日本海側の蝦夷が蜂起していたことがうかがえる[12]。 これより以後、蝦夷社会と律令国家の衝突は史料上に「蝦夷反乱」という形で国家側の記録が残るようになる[10]。 庄内平野の蝦夷反乱から3年後の和銅5年9月23日(712年10月27日)、出羽郡を中心に新たに出羽国が建てられた[原 9][13]。10月10日(712年7月13日)には陸奥国から最上郡と置賜郡を割いて出羽国に併せることになる[14]。 奥羽脊梁山脈の東の陸奥国側では、庄内平野の蝦夷反乱の際に一時的に政情不安の状態に陥っていたようだが、その後は比較的平穏な状態が続いていた[15]。 『続日本紀』慶雲4年5月26日(707年6月30日)条の記述によると、7世紀中頃の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、40年あまりを唐土ですごしたのち、解放されて帰朝した3人の中に陸奥国信太郡出身の壬生五百足という人物がいたことが知られている[15]。一般的に景雲4年より以前に信太郡が成立していた証左とされ、8世紀初頭には大崎平野でも律令国家による建郡の動きがあったことがうかがえる[15]。
大宝元年体制
大宝律令と蝦夷
庄内平野の蝦夷反乱金銅威奈真人大村骨蔵器(国宝、四天王寺所蔵)
出羽建国
大崎平野の建郡