この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年11月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
この項目では、尾張国の国人から徳島藩主家・華族の侯爵家になった蜂須賀氏について説明しています。肥後国の蜂須賀氏については「蜂須賀氏 (肥後国)」をご覧ください。
「蜂須賀」はこの項目へ転送されています。愛知県あま市の地名については「蜂須賀 (あま市)」をご覧ください。
蜂須賀氏
蜂須賀万字
本姓称・清和源氏斯波氏支流
家祖称・蜂須賀景成
蜂須賀氏(はちすかし)は、武家・華族だった日本の氏族。蜂須賀正勝(小六)が羽柴秀吉に仕えて大名となり、その息子の家政が1585年に阿波国徳島に入封。江戸時代にも徳島藩25万石の藩主を世襲し続け、維新後には華族の侯爵家に列した[1]。 新井白石が作成した『藩翰譜』(または『寛政重修諸家譜』)の中から作成された系譜の『蜂須賀氏系図』によると、下野源氏(足利氏)の足利泰氏、もしくは斯波氏の裔を自称する。しかし、多くの史家がこれを疑問を抱いており、蜂須賀氏の出自に関しての確証は未だにない[注釈 2]。 『蜂須賀家記』考異によると、正勝はもともと藤原姓を称しており、松平氏が藤原姓から源姓に改めたのに従って、忠英の代になって源姓に改めたとしている[2]。また伝承として、上野源氏(新田氏)一門の里見氏流鳥山氏の支族の肥後蜂須賀氏の当主の正家(能祐の孫)の娘(斯波氏に嫁いだ)の子の正秋の後裔で、尾張国中村に移住したとも伝わる。 蜂須賀氏の系図で信憑性があるのは、『寛政重修諸家譜』・『系図纂要』に記されている正利あたりからで、正利・正勝・家政と3代続いて、小六(小六郎)または彦右衛門を通称としている。 それ以前については異説が多数あり、極めて不確かである。南北朝時代に蜂須賀氏の遠祖とされる景成 蜂須賀氏が用いる家紋は複数ある。足利義昭から正勝が賜ったとされる桐紋(五三桐)を、主君羽柴氏の家紋を憚って、転じた柏紋(抱き柏)。そして平氏打倒の挙兵の際に源頼政が高倉王(以仁王)より賜ったという万字(左万字)(蜂須賀万字)、稲丸[3]などである。
出自
家紋