蛭子能収
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^ 「ナベゾ」という愛称で親しまれた青林堂の元編集者1979年当時は『ガロ』3代目編集長だった。『Jam』『HEAVEN』初代編集長の高杉弾メディアマン)とは生涯にわたる友人で同誌には多数の漫画を執筆した。また蛭子能収、根本敬みうらじゅんしりあがり寿湯村輝彦と並ぶヘタウマブームの仕掛人の一人でもあり、1984年に渡辺が上梓した『金魂巻』(キンコンカン)はベストセラーとなり、同書の中で渡辺が作り出した造語○金・○ビ」は同年の第1回流行語大賞を受賞する。後に蛭子は著書『ひとりぼっちを笑うな』の中で「渡辺さんのような上手いのか下手なのかよくわからない絵、いわゆる“ヘタウマ”のイラストが流行ったんですね。そんな状況下だったからこそ、僕の漫画も受け入れられた。僕が描いていた『ガロ』という雑誌に渡辺さんも描いていたから、それで注目されたっていうのもあったんじゃないかなあ」と回想しており、自身の漫画家人生にも少なからず渡辺の影響があったとしている[34]。また山崎春美によれば当時行方知れずだった蛭子の所在を『Jam』編集部に教えたのも渡辺であったという[8]
^ 山崎春美の「スーパー変態インタビュー」ではザ・スターリン遠藤ミチロウ群雄社出版社長の明石賢生に次いで3人目の変態に蛭子が選ばれている(また蛭子は遠藤、明石とも間接的な接点があった)。
^ ただし、完成したジャケット画に描かれていた男は当初リーゼント頭でロックのイメージと全く違ったため、パンクス風の髪型に田口トモロヲ自身が修正を加えている。後に田口は「これがギリギリ蛭子さんの中のロックンロールなんだなと思って。それで蛭子さんに『ちょっとパンクっていうのは、髪型が違ったりするんですよ』って言ったら『じゃあ田口さんの思う通りに直してください』って。だから実は髪の毛は僕が描いた」と回想している[43]
^ 他にも、みうらじゅん水道橋博士伊集院光吉田豪が蛭子ウォッチャーであることを公言している。
^ 元・青林堂ガロ』、現・青林工藝舎アックス』の編集者。『ガロ』時代から蛭子を担当しており、青林工藝舎社長の手塚能理子と同じく蛭子との付き合いは古い。1992年投身自殺した漫画家山田花子は実姉にあたる。イラストレーターとしてのペンネームは丸山玉子。
^ 佐川一政1981年パリ人肉事件を起こし全世界を震撼させた世界有数のカニバリストとして知られる一方で、特殊漫画家根本敬とも古くから交友がある。根本は佐川がハッテンバプロダクションに参加している理由について「何でここに佐川一政が入っているのかっていうのも佐川さんはやっぱり行為の引き金になるのは経済的な問題で緊迫して自暴自棄に追い込んでそれで『やろう』ってなるの。俺、何回かタイミングよく止めてるんだけどさ。でも海外には有名な犯罪者が描いた絵が高値で売買される市場があるんだよ。だから佐川さんにおとなしく絵を描かせて経済的な援護を与えれば、ああいう事件も再犯しないっていう。そういうエクスキューズから入るのもなんだと思うんだけどね」と語っている[48]
^ 蛭子によると自身の漫画単行本の最高売上は8000部程度であったという[50]
^ 根本は蛭子が世間一般に認知される以前から、蛭子の動向を観察しており、エビス・ウォッチャーの第一人者としても知られ、蛭子の本質(無意識過剰と評したこともある)をつかんでおり、「テレビで見た世間の人は、表面だけ見てだまされている」と語っている。
^ 没後刊行された『自殺直前日記』(太田出版)157頁には「蛭子さんや根本さんは天才。自分が描けないことを描いてくれる作家は勇気がある。真にカッコいい(尊敬&崇拝)。私もこーゆー風になりたいと思っているので、無意識に真似して世に出てきた」「根本先生、ジョージ秋山先生、蛭子先生、丸尾先生は他人(読者)を全然気にしていない。生身の自分をさらけ出している。勇気がある。私もそうなりたい。でも自分の恥ずかしい部分を認めたくないので描けない。偽物の作家は自分の願望を描いているだけ。こうでありたい自分の姿を描いている。ヒーローを求めている。情けない。私もこれからは、もっと勇気を出して描いていこう」と書き遺してあり、彼女が崇拝していた根本敬や蛭子能収の作品のように、「非情に徹して我が道を行く」ことに徹しきれなかった事を生前書き遺している。
^ かつて「俺が音楽でやりたいと思ってたこと全部やられてた」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
^ 山野は高校時代に自販機本Jam』に掲載されていた「不確実性の家族」(青林堂刊『私はバカになりたい』収録)で初めて蛭子の漫画を読み、エロ目的で開いた自販機本に余りに怪異なタイトルの本作が掲載されてあったのと、その不条理極まりない不気味な内容に衝撃を受けた事を明かしている(また山野は蛭子作品の中で最も好きな作品に本作「不確実性の家族」を挙げている)。後に山野は「パチンコのある部屋」(青林堂刊『貧困魔境伝ヒヤパカ』収録)で蛭子漫画の象徴を描き、作中にも蛭子の単行本『私はバカになりたい』を登場させている。
^ 遠藤ミチロウのカセットブック『ベトナム伝説』に掲載されていた蛭子の漫画を読み、大きなショックを受けて漫画家を志した経緯がある。
^ 青林工藝舎刊『僕の小規模な失敗』第2話「まんが道失敗!!の巻」より「あんなスゴイマンガを連載する雑誌ってあるのだろうか…?」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
^ 蛭子2冊目の単行本『私はバカになりたい』(青林堂)と同名のシングルをヒカシュー1983年に発表した際、蛭子にジャケット画を依頼した。また巻上は蛭子5冊目の単行本『なんとなくピンピン』(青林堂)に解説を寄稿している。
^ 影響を受けたアーティストのひとりに蛭子の名前を挙げている。
^ 遠藤ミチロウのソロ名義としては初となるアルバムベトナム伝説』(1984年)の付属冊子に漫画の執筆を依頼していた。
^ かつて劇団東京乾電池のポスター仕事を依頼しており、蛭子が芸能界デビューする直接的なきっかけを作ったことでも知られる。また周防正行が蛭子の漫画を原作にドラマ化した『サラリーマン教室』(TBS 1986年7月27日放送)に柄本が出演しており、蛭子も特別出演の形で登場する。
^ 推理作家吉村達也の初期のサラリーマン小説にも挿絵4コマを書いている。
^ その一方で「オレもアンダーグラウンドから脱出して、あっちのほうへ行きたいという気持ちもありますからね。あっちは華やかなですからね、誰でもそこへ行ってみたいと思う願望を捨てきることはできないですよ。ただ、そういうのが描けないし、正直に言うと日の当たる場所は飽きますね」と述べている[59]
^ニッポン戦後サブカルチャー史II』(2015年10月30日放送)第5回「ヘタウマって何だ?」より暴力的な自身の作風について蛭子は「お金がなくて貧しいってこともあったと思う。そういうのって怒りやすい、何かに対して怒ってる。だから大抵俺の漫画は最後に怒って誰かを殺すというのがすごく多かったんですよ。この人を殺すために5ページは使ってやると、そのぐらい怒りを込めて描いてましたね。(現実社会では)「こいつはダメだ!」と思っても、全然我慢してるんですよ。だけど漫画の中ではバーン!と爆発するんです」と答えている。
^ 蛭子能収『家族天国』(1986年 双葉社)収録の「俺の息子に手を出すな」より前後の経緯が確認できる。
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