アリストパネスはこのパラバシスの中で、奴隷の解放をほめつつも、それ以上に上記の海戦で刑を受けた将軍たちや、またそれまでの政変で排斥された人物の罪を許し、全市民が一致して国を守るべし、と歌い上げたのである。
この作品はあまりに人気が高かったため、当時の作品としては例外的に再演が行われた。現在の原本には再演のための改訂と見られる部分がある。 この作品の主要な部分は、後半の二大悲劇作家の比較にある。また、それらを含む様々な詩人への言及は全部分に散在する。筋書きから当初はエウリピデスを求めることになっているから、彼への言及が最も多い。以下、「」は参考文献よりの引用である。 作中で比較競技の始まる寸前のコロスの歌に「かたや気のきいた 磨きをかけたことを言いかたや言葉もろとも根こそぎに 飛びかかりざまはねちらす」 とあるのは、前者がエウリピデス、後者がアイスキュロスのことである。 ちなみに、その前 (p.82) ではアイスキュロスの文体による両者を比べた詩がある。 以下にこの作中でのそれぞれについての批評をまとめるが、いずれも作中ではアイスキュロスやエウリピデスが互いをやっつけるべく言う言葉である。 古代ギリシャ悲劇の完成者とも言われる。彼の作品は偉大な神々の葛藤を劇的な表現で描き、他方でその表現は大袈裟で難解な部分がある。この作中、競技を始めるに当たって、アイスキュロスは不公平だと文句を言うのは、これはギリシャ悲劇は基本的に新作を競演にかける形で行われ、1作につき1回のみの上演であったが、アイスキュロスについては特に彼の死後も上演を許されたということにちなんでいる。つまりエウリピデスは作者の死によって作品も死んでいるが、アイスキュロスの場合、作品はまだ死んでいないのでここでは呼び出せない、と文句を言うのである。このことは、彼の作品が当時特別扱いされていたことを意味する。 この作中でエウリピデスは彼の作品を、まず「野蛮人造り、強情語り(中略)大法螺の鞴口」とののしる。 作品全体に関してはまず、主役は悲嘆に暮れた人物で、それを舞台に立てて喋らせず、コロスが立て続けに歌うだけ、主人公がしゃべり始めるのは劇半ばで、それも突然大言壮語で怒髪天を衝く様子、しかしその意味は全然分からない、と劇的な設定と派手な言葉遣いでごまかしているだけと皮肉る。これに対して、アイスキュロスは自作についてまず、詩人は市民の師たること、そして偉大な神の有り様を教えるのが仕事であり、そのためには壮大な言葉が必要であると説いている。 プロローグに関しては、エウリピデスはオレステース劇(実際にはオレステイアの『供養する女たち』)のそれを取り上げ、言葉の意味が不明瞭であること、無駄な繰り返しが多いことなどを指摘している。この部分は、現代でも難解で解釈が分かれる部分とのことで、当時からそれが問題になっていたことがうかがえる。 次に歌について、エウリピデスは彼のそれが変化に乏しく、あちこちに同じような部分があることを指摘、まずは笛の伴奏による、次に竪琴の伴奏での彼の歌のあちこちを引用、それらが同じリズムであることを示す。ただし、この時代の音楽に関しては、現在ではほとんど何も分かっておらず、この部分は何がどうおかしいのかは分からない。 最後の詩句の重さの比較では、壮大な言葉遣いのアイスキュロスが勝って当然であろう。 エウリピデスは三大悲劇作家の中では最後発になる。彼はソフィスト的教養の元、人間の心理描写を得意とした。そのために、悲劇の英雄も人間として描き、時には不倫など不道徳も劇に乗せた。アリストパネス自身は思想的には貴族趣味で復古的であったから、エウリピデスはむしろ彼にとって好ましからざる人物である。そのような視点がこの作のあちこちに見て取れる。特に詭弁とも取れる言葉には批判的で、彼の作『ヒッポリュトス』の「舌は誓ったが心は誓わぬ」は再三にわたって皮肉に使っている。この言葉は、ヒッポリトスに継母のパイドラーが思いを寄せているのを知った乳母が彼にそれを伝えた時、その内容に怒った彼が発した言葉で、「内容を知らずに誓ったのだから心は潔白である」との意味だが、表面的には無茶であるから、当時大いに話題になったらしい。アリストパネスはこれをあえて曲解して「誓いはしたが欲に目がくらんだら破る」などという意味に言い換えている。この作でも最後にアイスキュロスを選ぶ時にこのせりふを引いている。 にもかかわらず、アリストパネスは彼の作を高く評価することも忘れてはいない。作中の競技が終わってもどちらとも決めかねるディオニュソスの台詞「一人は賢明、また一人を私は愛好している」は、前がエウリピデスであるが、ここではその両者を同等のものとして比べている。 競技では、作品全体について、エウリピデスが自らの作品をさして自分以前の作家のもつ贅肉を削り、人物は皆、考えを巡らし、ちゃんとものを話すようにしたこと、妙なこけ脅かしでなく、分かりやすい言葉を使ったこと、日常を舞台に乗せたこと、そのためには恋愛や不義をも描いたことを述べる。これに対して、アイスキュロスは詩人は市民の師であるとの考えのもとに、理屈と口数の多いものを上演することは、市民に言い逃れやごまかしを教えるものだ、また、不義は実在するものではあるが、詩人たるもの、そのようなものは市民の前から隠すべきであると言う。ここには古来の口数少ない戦士のような在りようを善しとする、アリストパネスの見方も加わっているであろう。 次にプロローグについては、アイスキュロスはまず個々に問題点を指摘しようとするが、これは揚げ足取りにしかならない。そこで、面倒だから全部まとめて油壷で潰してやる、と宣言。続いてエウリピデスが挙げるさまざまな作品のプロローグに「油壷をなくしたとさ」という句をつないで見せる。要するに、彼のプロローグは皆一本調子で同じリズムだ、という皮肉である。エウリピデスは7つめにこの句をつけられないものを挙げることができるが、そこはディオニューソスに止められてしまう。実際にはこの句をつけられるプロローグはアイスキュロスやソフォクレスにもあるが、特にエウリピデスに多いのは確かだという。それでも最後にそれをつけられない例を挙げたのは作者の公平な姿勢と言えよう。 音楽に関しては、アイスキュロスは自作を批判されたのを受け、自分のはちゃんとした伝統に則っているが、エウリピデスは、そこへ土俗的な雑多なものを持ち込んだと批判し、彼の歌のパロディを演じて見せ、ここがおかしい、と指摘する。しかし、音楽に関する知識が残っていない以上、これはどこがどうおかしいのか、現在では知ることができない。 最後の詩句の重さの比較で、エウリピデスは説得の神を含む詩句を挙げ、負けたのを不思議がっているが、ディオニューソスは「口先だけで薄っぺら」と評した。
詩人の比較
アイスキュロス
エウリピデス
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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