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やノートページでの議論にご協力ください。虫プロダクション(むしプロダクション、通称: 虫プロ)は、日本のアニメ制作会社。
漫画家でアニメーターである手塚治虫が設立したアニメーション専門プロダクションである。本項では1961年(昭和36年)に設立され1973年(昭和48年)11月に倒産した「株式会社虫プロダクション」(旧虫プロ)と、その子会社である「虫プロ商事」(1973年8月倒産)、1977年(昭和52年)に旧虫プロの労働組合を母体として設立された「虫プロダクション株式会社」(新虫プロ)に分けて記述する。
株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)虫プロダクション(1963年撮影)
株式会社虫プロダクション(通称: 虫プロ)は、1961年(昭和36年)6月に手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクションである「手塚治虫プロダクション動画部」が1962年(昭和37年)1月に改称したものである。
1961年(昭和36年)、手塚治虫プロダクション動画部を設立。手塚は東映動画の嘱託として、アニメ制作に携わったことがあり、その時の経験と人脈を生かして、プロダクションを立ち上げた。1962年(昭和37年)1月、株式会社虫プロダクションとして正式に発足。名称の虫には「漫画の虫」「アニメの虫」「無死(不死身)」の意味が込められた[1]。
1962年11月5日、第1作である短編(38分、カラー、ワイド)アニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話(モノクロ)ほか1作を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月1日、日本初の30分放送枠用の連続テレビアニメシリーズ[注釈 1]『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作[注釈 2]。従業員数は最盛期には400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品の多くはフジテレビで放送した。
1966年7月、社内の版権部、出版部、営業部を分離独立させる形で子会社の虫プロ商事を発足。同時に虫プロ本体の債務を移転した。詳細は「#虫プロ商事」を参照
『鉄腕アトム』の放送実現を機に萬年社を退職した穴見薫が、1963年(昭和38年)に虫プロの常務に就任。経営の舵取りを担い、社内改革を進めたが、1966年(昭和41年)12月に突然死する。これを機に経営は迷走していく[2]。その死の直後、穴見がフジテレビから1億3千万円の融資を受ける代償として、虫プロの全作品の権利をフジテレビに譲渡する契約を独断で行っていたことが発覚。虫プロがフジテレビとの交渉により、1978年(昭和53年)まで10年間の放映権をフジテレビが占有することを条件に権利を取り戻した[3][4]。
初期は手塚原作の作品のみを制作していたが、『アニマル1』『さすらいの太陽』『国松さまのお通りだい』『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化を行った。手塚治虫原作作品が2年間なかった状態に陥ったのは手塚作品が受けなくなったというテレビ局側の判断が第一だが、多忙な手塚の決裁を仰ぐ困難や手塚からリテイクの要求が出て、スケジュールが遅延してコストがかさんだり、番組の放送に穴が開いて、過去のエピソードのリピート放送で埋めるなどの原因となったことから、手塚を制作に加えないようにして、手塚原作を用いた作品を作らなくなった理由の一つと言われる虫プロ内部の事情があった[5][6]。いずれにせよ『0マン』『ノーマン』など手塚作品のパイロット版を制作してもテレビ局が採用しないとなれば、虫プロを企業として維持していくためには非手塚原作作品をやらざるを得ない状態だった[7]。
1971年(昭和46年)6月、手塚が今後の虫プロの方針として、「初心通りに作家集団として進めるか、利益追求その物を目的とする企業体とするか」を問い掛け、社員総会を繰り返し開催。話し合いの結果、大多数の社員が川畑栄一部長を中心とした利益追求の企業体制を固めることで結論が出る。これに失望した手塚がそれまでの赤字を負担する条件で社長を辞任。同調して退社する人材が相次いだ。社長には川畑が就任、資本金を200万円から1,000万円に増額して、労働組合が結成された[3][8][9]。
テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注競争となり、これに敗れる形でテレビ局からの受注が減少。人件費の高騰があり、次第に資金繰りが悪化する。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因となった。劇場用作品『哀しみのベラドンナ』の興行的な失敗があり、短期間のうちに資金繰りが極端に悪化した。1973年(昭和48年)8月22日、子会社の虫プロ商事が約4,000万円の負債を抱えて倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが実際には、子会社の倒産を回避できないほどに虫プロ本体の経営状態は悪化していた。同時点で同年9月に放映が終了する『ワンサくん』以後の制作作品の目途は立っておらず、既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。そして、川畑体制の虫プロは『ワンサくん』放映終了直後の同年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産する。
倒産前年の1972年12月には、鉄腕アトムのイラストを「マスコットキャラクターとして限定的に使用する」ことで手塚および虫プロと合意していたプロ野球球団・ヤクルトアトムズにおいて、球団後援会が作成したグッズでアトムのイラストを使用したことが「正規に虫プロと版権契約しているグッズ販売業者の権利侵害」として問題になり、球団との間でグッズ販売契約の話し合いを改めて行うもまとまらなかった。このため、球団は手塚と虫プロに謝意を示した上で、1973年1月から新ニックネームの検討に入った。5月には一度「ジャガース」が内定し、後半戦からの変更を発表したが[10][11]、結局シーズン中の変更は見送りとなった。シーズン終了後にニックネームは「ジャガース」を撤回して、「ヤクルトスワローズ」[12]に名称変更することを倒産直前の10月26日に発表した。 東映動画では大卒の正社員しか演出家になる事ができず、映画界全体にも身分制度のようなものが残っていた。学歴がないものは正規雇用の採用試験すら受ける事ができず、非正規雇用で入ったものは一生 非正規であり、監督など重要なポジションを任される事はなかった。 これに対して、虫プロは手塚治虫が個人の作家性を尊重して、才能のある者は重用するといった当時の映画界では極めて型破りな方針であった事から、学歴や経歴は関係なく、多くの才能ある人材を発掘する事を可能とした。 旧虫プロが日本のアニメ産業の歴史の上で果たした役割には代表的なものとして以下がある
登用方式
影響
日本初の本格的な週刊シリーズものの30分枠のテレビアニメ「鉄腕アトム」の制作を実現
海外輸出も意識したテレビアニメーションで、日本初の本格的な週刊シリーズもののカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」を作り、テレビアニメの時代を切り開く
アニメ番組の毎週放送を可能とするべく制作の作業量を減らしたリミテッドアニメの技法開発とそれに沿った様式の普及
日本のアニメが漫画を原作とするストーリー性の強いものや登場人物の心理などの内面に踏み込んだ作品も可能にした