蘇軾
[Wikipedia|▼Menu]
不識廬山真面目廬山の真面目を知らざるは廬山そのものの誠の姿はどうなのか、さっぱりわからないのは
只縁身在此山中只だ身の此の山中に在るに縁る自分が廬山の中に身を置いているからである

詩風

生涯で二度左遷を味わい、新法党に対する批判者扱いとされていた蘇軾は、自身の考えをあからさまに述べることが出来なかった期間が長かった。しかし、実際の詩文を読んでみると、柔軟でしなやかであり、芯が強い。強く生き貫こうとする志が表れているのである[13]

また蘇軾は、自然を好み自然(造物)に自身の心情を託している。宋代に入り自然描写を含んだ詩が多く出てきているが、擬人法を用いて早い時期から習得し成立させていたのが蘇軾であった。擬人法の先例として、次の句が挙げられる[14]

新城道中二首の一
原文書き下し文通釈
東風知我欲山行東風は我が山行せんと欲するを知りて春風はわたくしが山歩きをしようとしているのを悟ってか
吹斷簷間積雨聲吹斷す、簷間の積雨の聲を軒端に積もっていた淋雨の音を、今日はすっかり吹き払ってくれる

蘇軾と弟・蘇轍

蘇軾と蘇轍は兄弟愛に溢れた人物たちであった。父蘇洵と兄弟で都に上京してから、同じ科挙合格者として政治の世界に入った。時には兄の地方役職の赴任の際に70キロ先まで見送りをし[15]、またある時には支持していた旧法党が崩れ、兄弟ともに左遷を味わう[16]。蘇軾は人生で多くの詩を残しているが、その多くは弟に向けた離別詩が多い。以下の詩は弟と初めて離れた時に詠まれた詩である。

辛丑十一月十九日 既與子由別於鄭州西門之外 馬上賦詩一篇寄之(辛丑十一月十九日 既に子由と鄭州の西門の外に別れ 馬上に詩一篇を賦して之に寄す)
原文書き下し文通釈
不飲胡為酔兀兀飲まざるに胡為ぞ酔うて兀兀たる酒を飲んだわけでもないのにどうしてこう酔っぱらった時のようにふらふらするのだろう
此心已逐帰鞍發此の心已に帰鞍を逐うて發つわたしの心はすっかり都へ帰っていく君の馬の鞍の後を逐って抜け出しているに違いない
帰人猶自念庭?帰人猶ほ自ら庭?を念ふ帰っていく君は何と言っても親の膝元に戻ることを心頼みに出来ようが
今我何以慰寂寞今我何を以てか寂寞を慰めん今わたしは何によって心の寂しさを紛らわせよう
登高囘首坡?隔高きに登りて首を囘らせば坡?隔つ高みに登って都の方を振り返って見ると一つの丘が遮っている
但見烏帽出復沒但だ見る烏帽の出でて復没するをただ君が被る烏帽だけが出たり隠れたりするのが見えるだけだ
苦寒念爾衣裘薄苦寒に念ふ爾が衣裘を薄くして冬の激しい風雪のある旅で君の着物が薄くはないかと気にかかり
獨騎痩馬踏残月獨り痩馬に騎って残月を踏むを夜明け前の旅立ちにひとり痩せ馬にまたがって残月の影を踏んでいく君を想う
路人行歌居人楽路人は行く行く歌ひ居人は楽しむ旅人は歌を口ずさみつつ行きかい家におる人は楽しげである
童僕怪我苦悽惻童僕は我が苦だ悽惻するを怪しむしかししもべたちはわたしだけひどく悲しげな顔をしているのをいぶかっている
亦知人生要有別亦た知る人生要ず別れ有ることをまた分かっている人生に別れはつきものだということを
但恐歳月去飄忽但だ恐る歳月去ること飄忽なるをただ恐れる年月が風のように早く過ぎ去ってしまうことを
寒燈相對記疇昔寒燈に相對せし疇昔を記す頼りないともし火の光のもとに向かい相語り明かした昨夜のことはいつまでも思い出に残るだろう
夜雨何時聴簫瑟夜雨何れの時にか簫瑟を聴かん二人で床を並べてそぼふる夜の雨の音を静かに聞ける日はいつになったら来るのか
君知此意不可忘君此の意の忘るべからざるを知らば君もこの願いこそ二人の心にとどむべきものだとはお判りでしょうが
慎勿苦愛高官職慎んで高き官職を苦しく愛すること勿れそれならどうか高い官職を極度に好むことなどないようにしてほしい

※「子由」は蘇轍のこと。
蘇軾と王安石

蘇軾の散文や詩は柔軟でしなやかであり、芯が強いのが特徴である。一方で、同時代に活躍し政治的にも対立をしていた王安石の散文は、明快で硬質な文体であった。人生も文体の特徴も正反対な両者は交わることのない関係に思われるが、詩文を通じた交流が有った。要職を退いた後の王安石は蘇軾に対して以下の七言絶句を送っている。

北山
原文書き下し文通釈
北山輸緑漲横陂北山緑を輸横陂漲る北山は緑豊かに田んぼには水がみなぎっている
直塹回塘艶艶時直塹、回塘、艶艶たる時真っ直ぐな堀、丸い池が艶やかな季節
細數落花因坐久細かに落花を數ふるは坐すること久しきに因る落花をひとつひとつ数えたのも君と長くいたおかげである
緩尋芳草得歸遲緩やかに芳草を尋ねて歸ること遅きを得たりともに遅くまで芳草を訪ねて歩いたものだ

蘇軾はこれに対して

次荊公韻(荊公の韻に次す)
原文書き下し文通釈
騎驢渺渺入荒陂驢に騎って渺渺として荒陂に入るロバに乗ってはるばる旅を続けてきて荒涼とした池のつつみに入った
想見先生未病時想見す先生の未だ病まざりし時をふと、君の病気前の元気なお姿が目に浮かんだ
勧我試求三畝宅我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ君はわたくしにこの地に三畝ほどの宅地を探してご覧になってはと勧めるが
従公已覚十年遅公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ君に従って教えを受けるのがすでに十年遅すぎたとつくづく思う

と、答えている。

※「荊公」は王安石のこと。

上に挙げた詩のほかにも、成語「一刻千金」の元となった[17]春夜などが知られている。
書家として

書家としても著名で、米?黄庭堅蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之王献之)を学び、後に顔真卿楊凝式李?を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年(1082年)47歳のとき、自詠の詩2首を書いた会心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節の前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙行書で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。落款はないが、黄庭堅の傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家の代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。[18][19][20][21]
画家として

絵画の分野において士夫画の提唱者であり、自身も墨竹画をよくした。現存する自筆作品は限られるが、絵画に関して論じた文章や詩を多く残している。その代表的な作品として『浄因院画記』・『伝神記』・『??谷偃竹記』などがある。また、題跋詩や題画詩にも蘇軾の絵画に対する思想がみえる。「書?陵王主簿所画折枝二詩」に「画を論ずるに形似を以てするは、見児童と隣す」とあるように、画の「形似」ではなくその内の精神性に重きをおいていた。蘇軾と思想を共にした人物には文同黄庭堅米?華元などがいる。なかでも最も影響を受けたと思われるのが、その従兄弟であり画竹の師でもあった文同である。蘇軾は文同の画について「與可の竹を画く時、竹を見て人を見ず」と評した。また、王維の詩について「詩中に画あり、画中に詩あり」と評している。
居士(禅信奉者)として

東坡居士と呼ばれ始めたのは、黄州左遷時からである。左遷や貶謫の波乱の中、この状況を利用し、禅的境地に磨きをかけた。モンゴルチンギス・カンの宰相、耶律楚材こと湛然居士は、「しばしば東坡を真人中の竜と称せり」[22]と述べており、道元禅師は「筆海の真竜なりぬべし」[23]と評価している[24]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef