藩札
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ただし、藩札は小札が多かったのに対し、新紙幣は十銭札が最少だったため、5銭以上に相当する藩札だけが新紙幣と交換され、5銭未満の小札は新貨発行まで引き換えが見合わされた[3]。5銭未満のものは新貨(5銭銀貨等)と交換されることとなったが、新貨鋳造が間に合わなかったため、旧藩札に新価額を押捺して流通させた。この新価額スタンプ(大蔵省印)は1厘から3銭台までは1厘刻みで全て存在し、4銭台も1厘刻みだが4銭1厘・4銭7厘・4銭9厘が欠けているので、総計46種となっている。なお1枚の価額が1厘未満と査定されたものも存在し、基本的には2枚で1厘、3枚で1厘など、種類によって定められた枚数で1厘とされ、最小で「23枚で1厘」のものがある。また計算上の価額が8毛台や9毛台など1厘に少し足りないものは単純に「1厘」とされず「2枚で2厘」とされた。これら1厘未満のものは押印されずまとめて交換された。明治7年(1874年)には新貨幣の鋳造が進みようやく交換が開始され、最終的に処理を完了したのは5年後の明治12年(1879年)6月であった。

廃藩置県後、新通貨が整備されて普及するまでは、太政官札民部省札などといった藩札類似の政府紙幣、旧幕府領に設置された府県のいくつかが発行した札、新政府が各地の商業中心地に開設させた為替会社や通商会社が発行した札などと並び、藩札に円銭厘の単位を示した大蔵省印が加印された藩札が、新貨交換比率が設定された寛永通寶銭などの銭貨と共に使用された。
各藩の状況
蝦夷・奥羽地方
弘前藩

宝暦の飢饉で疲弊した陸奥国弘前藩の財政を立て直すため、勘定奉行の乳井貢が宝暦6年(1756年)に導入したのが標符という藩札類似のものであった。藩札と異なり標符は、通帳のようになっており商取引が書き込む形式となっている特徴があった。

商人は一家一業を原則とし、全ての商品と蓄えられた米や金銀を半ば強制的に藩に納めさせ、改めて標符と商品を下付した。商人はすべての商いを標符で決算され、利益の一割を商人の取り分として残りは藩に納めさせた。また、藩の家臣は禄高に応じた銀の額の標符が渡され、買い物毎に商人がその標符に取引を書き込む形式を取った。

標符はあまりにも急進的な試みであったため、2年足らずで廃止、乳井貢も失脚した。
仙台藩

陸奥国仙台藩では幕府の許可を得て、藩内流通限定とした天明の大飢饉への救済を名目とした仙台通宝が天明4年(1784年)11月より作られた。江戸時代の地方貨としては初めての物である。仙台通宝は当時藩内経済の要衝であった石巻の鋳銭場で作られた。「鋳銭場」の地名は現在の石巻市中心部に残っている。また、同時期に紙幣としての藩札も発行された。藩札は、貞享・宝永・天明・升屋札・両替所札などがあげられる。
会津藩

陸奥国会津藩では、藩財政窮乏の打開と藩士救済を目的として、元締役 長井九八郎の意見具申を容れる形で元禄13年(1700年)に金札、翌年には銭札を発行した。しかし、町方、村方には受け入れられず、元禄16年(1703年)までに金札、銭札共に通用を停止した。その一方で、幕末に松平容保が京都守護職に就任したことに伴って播磨国加東郡加西郡に役知領を有した同藩は、役知領の近隣に当たる播磨国加東郡小澤村の辻氏の引請による銀札を江戸末期頃に発行した。他に会津藩発行の貨幣としては、寛永通寶、天保通寶の密鋳銭、会津銀判などがある。
久保田藩

宝暦3年(1753年)から宝暦4年(1754年)、出羽国久保田藩は凶作に見舞われ、幕府に願い出て藩札を銀札1匁につき銭70文の相場で発行した。当初10匁、5匁、3匁、2匁、1匁の5種類だったが後に、3分、2分の藩札も発行された。当初は順調であったが、凶作による米の値上がりを見込んで商人らが米を隠匿するなどして藩札による買い上げを拒否した。また藩は凶作のため正貨で米を買い集めなければならなくなり、兌換の資金が流出してしまった。混乱のうちに宝暦7年(1757年)に藩札は廃止された。

失敗の責任が問われ、家老や銀札奉行などが切腹や蟄居など重い処分が下された。また藩主よりの中下層の藩士が連座についたが、佐竹一族や古くからの家臣は加増されるなど派閥争いの様相も垣間見えた(佐竹騒動)。
米沢藩の事例(額面以上での回収)

出羽国米沢藩では、金札が大半だったが、宝暦13年(1763年)に上杉家が京都屋敷を買戻してから、銀札も発行された。明治7年(1874年)、新政府による新通貨発足に伴い、回収時の引替率は、金札1両が1円、銀札50匁が1円であった(土佐藩の金札1両が33銭3厘、薩摩藩の32銭2厘、銀札も秋月藩の5匁札は4銭2厘、徳島藩の1匁札は8厘などと比べ、破格の両替率であった。)[4]

旧一両は新貨幣一であるため兌換率十割(銀札に至っては額面の十割二分を超える[5])、しかも両替手数料なし(通常は数パーセント)にもかかわらず、保持し続けた者が多く全札を回収しきれていない。上杉家には多額の剰余金が残り、新政府に献上の3万両、旧藩士らに分与17万両余、沖縄県への寄附、旧領民の海外留学への奨学金を費やしてもなお残り、銀行まで作った(米沢義社、現在は合併で山形銀行)[6]
関東地方
岡部藩(半原藩)

武蔵国岡部藩(のち三河国半原藩)では、摂津国の飛地領で、大坂堂嶋御用場の出入り両替商加嶋屋熊七、天王寺屋彦十郎が引請人となった銀札を発行した。摂津国の豊嶋郡、能勢郡、川辺郡、有馬郡に散在する同藩の領地を中心とした地域で通用した。

安政4年(1857年)、飛地陣屋である桜井谷陣屋の役人の不正が発端となり、抜本的な財政改革を要求する騒動が発生した。近隣の麻田藩では大坂商人で西本願寺家臣の石田敬起(大根屋小右衛門)による改革で藩札は農民側の管理に委ねられて適切に運用されていたため、それに倣った改革が領民から要求された。その結果、藩札は大坂の両替商の関与を断たれ、桜井谷陣屋の米奉行が発行し、豊嶋郡の領内有力農民が銀穀方として運用する形態が幕末まで続いた。
中部・北陸地方
岩村藩

美濃国岩村藩では、金札二朱・一朱、銭札一貫文・百文等があった。
苗木藩

美濃国苗木藩では、元治年間に発行の金札二両・一両・二分・一分・二朱等があった。
浜松藩

遠江国浜松藩では、飛地領を有する播磨国東部の加東郡・美嚢郡で安政3年(1856年)頃、銀札を発行した。札面には、偽造防止のためオランダ語の単語(Voordeelig;便利な)が描かれていた。額面は銀五匁、一匁、三分、二分であった。
近畿地方
狭山藩

河内国狭山藩では、天保6年(1835年)に銀札、翌7年(1836年)に銭札を発行した。


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