藩札
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

上杉家には多額の剰余金が残り、新政府に献上の3万両、旧藩士らに分与17万両余、沖縄県への寄附、旧領民の海外留学への奨学金を費やしてもなお残り、銀行まで作った(米沢義社、現在は合併で山形銀行)[6]
関東地方
岡部藩(半原藩)

武蔵国岡部藩(のち三河国半原藩)では、摂津国の飛地領で、大坂堂嶋御用場の出入り両替商加嶋屋熊七、天王寺屋彦十郎が引請人となった銀札を発行した。摂津国の豊嶋郡、能勢郡、川辺郡、有馬郡に散在する同藩の領地を中心とした地域で通用した。

安政4年(1857年)、飛地陣屋である桜井谷陣屋の役人の不正が発端となり、抜本的な財政改革を要求する騒動が発生した。近隣の麻田藩では大坂商人で西本願寺家臣の石田敬起(大根屋小右衛門)による改革で藩札は農民側の管理に委ねられて適切に運用されていたため、それに倣った改革が領民から要求された。その結果、藩札は大坂の両替商の関与を断たれ、桜井谷陣屋の米奉行が発行し、豊嶋郡の領内有力農民が銀穀方として運用する形態が幕末まで続いた。
中部・北陸地方
岩村藩

美濃国岩村藩では、金札二朱・一朱、銭札一貫文・百文等があった。
苗木藩

美濃国苗木藩では、元治年間に発行の金札二両・一両・二分・一分・二朱等があった。
浜松藩

遠江国浜松藩では、飛地領を有する播磨国東部の加東郡・美嚢郡で安政3年(1856年)頃、銀札を発行した。札面には、偽造防止のためオランダ語の単語(Voordeelig;便利な)が描かれていた。額面は銀五匁、一匁、三分、二分であった。
近畿地方
狭山藩

河内国狭山藩では、天保6年(1835年)に銀札、翌7年(1836年)に銭札を発行した。銀札の引替所は池尻村の小谷六左衛門方であった。
丹南藩

河内国丹南藩からは、文政4年(1821年)に米の価格を銀単位で表示(「米弐升代銀壱匁」など)した米銀札を発行した。その他、明治期には、丹南引替役所から銭札を発行した。
岸和田藩

和泉国岸和田藩では、延宝4年(1676年)から藩札(銀札)を発行した。当初よりさまざまな引請人の銀札が発行されており、札遣いが盛んだったことがわかる。享保15年(1730年)の札遣い再開からは、領内の泉佐野の廻船問屋で加賀国銭屋五兵衛と並び称された豪商の食野家(めしのけ)などの引請による銀札が発行された。なお、岸和田藩は食野家から多額の借財を抱えており、藩財政は同家の強い影響下にあった。
伯太藩

和泉国伯太藩からは、宝暦5年(1755年)に領内の黒鳥村の黒川武左衛門が札元となって発行された。その他、仲村吉次郎、大植清左衛門が札元となった銀札が現存している。明治期には、銭札が発行された。
麻田藩

摂津国麻田藩は1万石程度の小藩としては例外的に、かなり早期の延宝5年(1677年)3月から藩札を発行した。これは、麻田藩領の多くが経済の中心地であった大坂に程近い摂津国豊嶋郡(豊嶋郷)、川辺郡(高平郷)にあったことによるものと考えられる。幕命により宝永4年(1707年)に一旦は発行を中止したが、その後、幕許を得て宝暦3年(1753年)7月に再度発行し、明治維新後まで継続した。なお、麻田藩は備中国にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。
尼崎藩

摂津国尼崎藩は、経済活動の盛んな西宮、兵庫津を領し、更に大坂、伊丹に囲まれるという地理的条件のため、早期に藩札が発行された。尼崎藩札として確実なものは油屋庄右衛門を札元とした寛文10年(1670年)発行の札がはじめである。宝永の札遣い停止令を経て、享保15年(1730年)に西宮の町人を札元に登用した銀札を発行した。尼崎藩での銀札の引き請けは、家屋敷・田畑を抵当に多額の資金を無利子で得るという形式をとっていたため希望者が多く、札元は数十人に上った。

明和6年(1769年)に尼崎藩の経済の根幹であった西宮と兵庫津を含めた灘筋の村々が幕府領として上知され、藩財政に対する不安から藩札流通にも多大な影響が見られた。このため、庄屋層に管理を託していた旧札を回収して、新引替人による統一的な新札発行に切り替えられた。文政元年(1818年)には引き替えは泉屋利兵衛、樋口屋十郎右衛門、尼崎引替役所の3か所となった。しかしその後も数度新・旧札の切り替えが行われ、札元も入れ替わった。

明治初期には銀札は銭札に切り替えられ、金札も併せて発行された。明治新政府回収の際の引替率は、金札1両は1円、銭札五百文は4銭、百文は8厘であった。

また尼崎藩では、明和6年の西宮、兵庫津をはじめとする灘目筋村々の上知に伴って与えられた播磨国の飛地領においても、赤穂郡上郡村及び多可郡中安田村に置かれた会所で藩札を発行した。
三田藩

摂津国三田藩は近隣の尼崎藩、麻田藩などと同様にかなり早期の、元禄13年(1700年)から藩札を発行した。宝永の札遣い停止令を経て、元文5年(1740年)に、藩財政窮乏の緩和、藩経済の発展に対応した通貨量増大などを目的として藩札の発行を再開した。

三田藩が陣屋を置いた三田町は、周辺の摂津・播磨内陸部の国境地帯が幕府領、小藩領、関東諸藩の飛地領、旗本領等の錯綜地であったこともあり、商業の一大中心地として栄えた。また、酒造好適米の生産地である播磨国東部から酒造の一大中心地である摂津国武庫郡西宮町への陸路による輸送の重要な中継点にあたり、後に西宮町を含む灘地方(摂津国西部沿岸地域)における酒造業の飛躍的発展に伴って、三田藩領及び周辺の米も酒米として利用されるようになると、三田藩が藩領外の商人に対しても自藩領内での藩札の使用を義務付けていたこともあり、摂津国西部から播磨国東部にかけてのかなり広い地域で同藩の札は流通した。三田藩では領内のみならず、領外の多くの有力商人・農民をも自藩札の引請人としていた。ただし、三田藩本領、摂津国灘地域、播磨国東部地方では発行された札の図柄が異なっており、必ずしも相互の地域で一元的に流通していたわけではない。

なお、三田藩は丹波国氷上郡にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。
高槻藩

摂津国高槻藩では、財政基盤が脆弱で、国産品の専売制も困難であったため、借入、頼母子講、御用金といった起債の形で財政難の対策としており、周辺の藩のような藩札の積極的な発行は明治元年(1868年) - 2年(1869年)まで待たねばならない。江戸期には、倹約を目的として、家中の贈答用に発行された銀札の音物(いんもつ)札のみが発行された。音物札はあらゆる贈答の機会に使用することが義務付けられていた。交付の際に額面の2%の手数料が必要であったが、正銀への交換は無料であった。
明石藩

播磨国明石藩札は畿内近国の諸藩からは少し遅れ、寛延3年(1750年)11月より、この時点で藩主であった松平氏(親藩、越前松平家庶流)によって発行された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:56 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef