記録によると水野時代の藩札は銀札で札座(発行所)を城下の商人(銀掛屋)「菊屋」が担当し、銀と札との兌換比率は13:10であったとされる。また、この札は信頼性が高く(実際、前述の通り全額の兌換が可能な財政的裏付けがあった)藩外でも取り扱われ元禄時代までに近隣の藩や大坂でも通用したといわれる。水野氏の廃絶後、阿部氏の時代には財政難から藩札が乱造されるようになり、享保15年(1730年)などに発行されているが、こちらの藩札は信用が低く藩が使用を強制することもあった。 備中国松山藩は、元禄年間に当時の藩主であった安藤氏が発行し、次の領主であった石川氏もこれに倣った。延享元年(1744年)に新たに板倉氏が入封すると、直ちに五匁、一匁の銀札を発行したが、国内の荒廃などによって表高5万石に対して実収2万石しかなかった同藩財政は逼迫して天保年間には準備金が底を突いた上に更に大量の五匁札を発行した。このため、藩札の価値は大暴落して財政を却って悪化させる原因となった。これに対して藩執政に就任した山田方谷は敢えて藩札の廃止と3年間に限って額面価格での引き取りを行う事を表明した。その結果藩札481貫110匁(金換算8,019両)が回収され、未発行分の230貫190匁(同3,836両)と合わせた合計711貫300匁(同11,855両、当時の藩財政の約1/6相当にあたる)が、方谷の命令によって嘉永5年(1852年)9月5日領内の高梁川にある近似川原(ちかのりがわら)に集められた藩士・領民の目前で焼却処分された。その後方谷は五匁、十匁、百匁からなる「永銭」と呼ばれる額面の新しい藩札を発行して、準備金が不正に流用される事の無い様に厳しい管理下に置いた。そのため、藩札の信用は回復される一方、その準備金の適切な投資・貸し出しによって裏打ちされた殖産興業は成功を収めて、10万両と言われた藩の借財は数年で完済されて、藩札も額面以上の信用を得るという好循環を招いた[14]。 徳島藩は阿波国及び家臣で洲本城主の稲田氏が統治する淡路国を領有していた。徳島藩の銀札及び銭札は阿波国及び淡路国の両国で通用した。古いものでは、延宝8年(1680年)の年号が書かれた銀札が現存している。のち、幕府による札遣い禁止を経て、明治期まで札遣いが続けられた。明治4年(1871年)より新通貨に引き替えられた際の引替率は、一匁札及び百文札は8厘、三分札及び弐分札は2厘であった。 その他、洲本銀札場から銀一貫目から十匁までの高額面の銀札が発行された。 筑前国秋月藩は幕府から独立した藩として公認されてはいたが、福岡藩の分家として立藩した支藩である関係で、軍事・財政面で相互援助が行われていた。このため、藩札も相互に領内流通を認めていた。秋月藩の藩札発行は、福岡藩で発行された翌年の元禄17年(1704年)からであるが、各藩に下された札遣い停止の幕命により、わずか4年で回収された。しかし、幕許によって藩札発行が認められた享保15年(1730年)には早くも藩札の発行を再開している。明治維新後、新通貨に引き替えられた際の引替率は、五匁札は4銭2厘、壱匁札は8厘、弐分札は2厘であり、福岡藩よりも高い相場であった。
備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)
備中松山藩
四国地方
徳島藩
九州地方
秋月藩
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 朝尾直弘、辻 達也 編『日本の近世3』中央公論社、1991年、82頁
^ 日本全史 1991年3月15日 講談社
^ a b 阿達義雄「明治文学に現われた天保通宝
^ 日本銀行貨幣博物館展示および公式web
^ 金1両=銀60匁のため(市場相場はさらに上がる)
^ 松尾正人『維新政権』
^ 山本博文『「忠臣蔵」の決算書』(2012年、新潮社)など
^ ただし、長矩および浅野大学家、内蔵助の子孫(大石宗家)、三好藩は全て断絶している為、これに反論できる立場の者が皆無である。芝居(『仮名手本忠臣蔵』など)の創作で大野九郎兵衛が、藩札交換で準備した金を持ち逃げしたというのは俗説。
^ 「写真スライド・延宝赤穂藩札」広島市立中央図書館「おカネでみる広島藩」高木久史(2019年)
^ 長矩の遺品(「口宣案 長矩・従五位下・内匠頭」「赤穂郡佐用郡御年貢納帳」ほか)は脇坂氏が持ち去ったため、赤穂市にも広島市にもない(兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」・非公開)
^ 『池田家文書』(岡山大学所蔵)